松平容保(まつだいらかたもり)と会津落城
直ちに王政復古の大号令が行われたこの頃、内戦の混乱に乗じて欧米列強国が介入して来るを恐れ、徳川慶喜を新政府に参加させる事に拠り徳川家の懐柔と温存を自説とした土佐海援隊隊長・坂本龍馬が西郷隆盛達倒幕急進派と意見対立していた。
その坂本龍馬が、土佐陸援隊長・中岡慎太郎もろとも近江屋で暗殺される。
坂本龍馬暗殺から僅か一月半後、薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府の兵と幕府勢との衝突から鳥羽・伏見の戦いが起こると会津藩兵も戦うが敗走し大坂へ退いていた慶喜が戦線から離脱した為、容保(かたもり)はその慶喜に従い、弟の桑名藩藩主・松平定敬(まつだいらさだあき)らとともに幕府軍艦で江戸へ下る。
慶喜が新政府に対して恭順を行うと、江戸城など旧幕臣の間では恭順派と抗戦派が対立するも容保(かたもり)の会津藩内では武装恭順が大方の重臣の意見で在った。
もはや態勢を変えられないと悟った松平容保は会津へ帰国し、家督を養子の喜徳へ譲り謹慎を行う。
西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城の無血開城が行われると、新政府軍(官軍)は上野戦争で彰義隊を駆逐して江戸を制圧すると北陸地方へ進軍する。
松平容保(まつだいらかたもり)は隠居謹慎するが、何しろ京都見廻組や壬生浪士組(みぶろうしぐみ・新撰組/しんせんぐみ)を組織して勤皇派浪士を取り締まった会津松平藩は幕府派の重鎮と見られて新政府軍(官軍)から敵視されていた。
戊辰戦争で容保(かたもり)は、奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍に抗戦して会津戦争を行い会津城(鶴ヶ城/若松城)に篭城する。
会津戦争に際して会津藩が組織した十五歳から十七歳の若い少年武士が、市中火災の模様を若松城が落城したものと誤認し総勢二十名が飯盛山自刃、十九名が命を落とした白虎隊の悲劇は、この篭城戦初期の城外迎撃戦で起こっている。
会津勢の立て篭もる会津城(鶴ヶ城/若松城)は一ヵ月の間持ち堪え、板垣退助勢に薩摩の援軍の助けをかりても遂に城は落ちなかったがその後容保(かたもり)は降伏勧告に応じて会津城(鶴ヶ城/若松城)は開城され、家老の佐川官兵衛らに降伏を呼びかけている。
会津落城後の容保(かたもり)は妙国寺に謹慎した後、和歌山藩に移され預かりとされるが明治五年に謹慎を説かれ、明治十三年より東照宮々司に任ぜられた。
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皇統と鵺の影人
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未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくる」<=このブログのランキング順位確認できます。by mmcjiyodan | 2010-01-13 13:27