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鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)その二

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世に言う鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)の緒戦は、京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた。

夕刻、下鳥羽付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と旧幕府大目付の滝川具挙の問答から軍事的衝突が起こり、鳥羽での銃声が聞こえると伏見付近でも衝突して戦端が開かれる。

新政府軍の京都周辺の兵力は約五千、対して旧幕府軍は一万五千を擁していたが、薩摩を中心とする新政府軍の新鋭軍装に対し旧幕府軍の装備は旧式の上狭い街道での縦隊突破を図り優勢な兵力を生かし切れずに新政府軍の弾幕射撃に拠って前進を阻まれる。

この戦闘、最初から旧幕府軍の士気が低く、鳥羽では総指揮官の竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで指揮系統が混乱し、伏見では奉行所付近で佐久間近江守信久や窪田備前守鎮章ら幕将の率いる幕府歩兵隊、会津藩兵土方歳三率いる新選組の兵が新政府軍(薩摩小銃隊・八百名)に敗れ敗走した。

翌日の淀の戦いでは両軍一進一退の戦闘が続いたが、三日目になると明治天皇が仁和寺宮嘉彰親王に錦旗(きんき)を与え新政府軍が官軍となる。

錦旗(きんき)と呼ばれる菊章旗は、赤地の錦に、金色の日像・銀色の月像を刺繍したり描いたりした日之御旗と月之御旗の二振り一組の御旗である。

承久の乱(じょうきゅうのらん)に際して後鳥羽上皇が配下の将に与えた物が歴史上の錦旗の初見とされ、以後朝敵討伐の証として天皇から官軍の大将に下賜する慣習がある。

維新の動乱に際しては、鳥羽伏見の戦いに於いて薩摩藩の本営で在った東寺に初めて錦旗が掲げられた。

この錦旗、「岩倉具視が偽造した」と言う説もあるが、真贋は定かではない。

旧幕府軍は慶喜の側近の一人で現職の老中でも在った淀藩主・稲葉正邦を頼って、淀城に入り建て直しを図ろうとするが、淀藩に新政府と戦う意思がなく、城門を固く閉じ旧幕府軍の入城を拒んでいる。

入城を拒絶された旧幕府軍は淀千両松に布陣し新政府軍を迎撃したが惨敗し、この戦闘の最中に新選組結成時からの主要幹部隊士の一人で在った井上源三郎が戦死した。

幕府軍は淀千両松から後退を重ね、石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて橋本付近に布陣し、西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方歳三率いる新撰組の主力などを擁する幕府軍の本隊が陣を張る。

東に男山、西に淀川を控えた橋本では、迎え撃つ旧幕府軍に地の利は在ったが、対岸の大山崎を守備していた津藩が新政府軍側へ寝返り旧幕府軍へ砲撃を加え始める。

突然の西側からの砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなり、この戦いで京都見廻組々長・佐々木只三郎が重傷を負い後に死亡、新撰組諸士調役兼監察・山崎烝が重傷負い後に死亡、山崎と同格の吉村貫一郎が行方不明と成り、旧幕府軍は淀川を下って大坂へと逃れて行く。

幕臣強硬派に圧されて薩摩征伐を許した前将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は元々開戦に積極的で無く大坂城に居り、旧幕府軍の敗戦が決定的と成って自分に追討令が出たと聞くと、その夜には僅かな側近及び老中・板倉勝静、同・酒井忠惇、会津藩主・松平容保・桑名藩主・松平定敬(まつだいらさだあき・松平容保とは兄弟)と共に密かに城を脱して大阪湾に停泊中の榎本武揚(えのもとたけあき)率いる旧幕府艦隊旗艦・開陽丸で江戸に退却した。

新政府軍の優勢により多くの藩が旧幕府軍を見限り、前将軍・徳川慶喜が江戸に向かって逃亡した為に旧幕府軍の全面敗北と成り、戊辰戦争の舞台は江戸市街での上野戦争や、北越戦争、東北地方での会津戦争、そして箱館戦争と続く事に成る。

江戸城無血開城(えどじょうむけつかいじょう)】に続く。
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by mmcjiyodan | 2010-01-16 15:03  

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