寺田屋騒動(てらだやそうどう)
世に寺田屋騒動(てらだやそうどう)、寺田屋事件(てらだやじけん)と呼ばれるものは二つ在り、一つは千八百六十二年(文久二年)に発生した薩摩藩尊皇派らの粛清事件であり、もう一つは千八百六十六年春三月(旧暦・慶応二年正月の終わり)に発生した伏見奉行捕り方に拠る坂本龍馬襲撃事件である。
最初に起こった寺田屋騒動(てらだや騒動)・薩摩藩粛正事件は、千八百六十二年(文久二年)に薩摩藩尊皇派が薩摩藩主の父で事実上の指導者・島津久光によって粛清された事件である。
千八百六十二年(文久二年)、有力外様大名・薩摩藩の事実上の最高権力者・島津久光は日本中の尊王派の期待をその身に背負って藩兵千名を率い上洛する。
しかし尊王派の期待空しく、当時の島津久光の本音は公武合体で倒幕の意志は無かった。
その久光に不満を持った薩摩藩の過激派、有馬新七らは同じく尊王派の志士、真木和泉・田中河内介らと共謀して関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義邸を襲撃する事を決定し、伏見の船宿寺田屋に集る。
当時寺田屋は薩摩藩の京都での定宿であり、このような謀議に関しての集結場所としては格好の場所だった。
実は、上洛した島津久光は島津家と関わりが深い公卿・近衛忠房(このえただふさ)らに持論である公武合体を説いた意見書を提出し、朝廷から浪士鎮撫の勅命を既に受けていた。
そこに、自藩過激派が多数含まれるこの襲撃謀議の発覚だった。
謀議を察知した久光が、大久保一蔵(利通)らを派遣しこの騒ぎを抑えようと試みたが大久保は失敗する。
島津久光は彼らの同志である尊王派藩士を派遣して謀議グループを藩邸に呼び戻し、久光自らが説得しようと、後に新政府で鹿児島県令を務める大山綱良や奈良原繁・道島五郎兵衛・鈴木勇右衛門・鈴木昌之助・山口金之進・江夏仲左衛門・森岡善助・上床源助ら特に剣術に優れた藩士を九名選んで鎮撫使として派遣する。
寺田屋に赴いた大山綱良らは、久光の藩命として有馬新七に藩邸に同行するように求めたが新七はこれを拒否し、同士討ちの激しい斬り合いが始まった。
この切り合いに拠って、討手の道島五郎兵衛と寺田屋に居た有馬新七とその同士・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵ら六名が死亡、田中謙助と森山新五左衛門の二名が重傷を負った。
この時寺田屋の二階には、まだ大山巌・西郷従道・三島通庸・篠原国幹・永山弥一郎などが居たが、大山綱良らが刀を捨てて飛び込み必死の説得を行った結果、残りの尊王派志士たちは投降した。
この寺田屋事件には、後に明治の元勲となる若き日の大山巌(おおやまいわお/弥助)や西郷従道(さいごうじゅうどう/つぐみち)も参加して居たが、年齢若きを持って助命謹慎の処分を受けている。
負傷した田中謙助と森山新五左衛門の二名は切腹させられ、薩摩藩以外の尊王派諸藩浪士は諸藩に引き渡されたが引き取り手のない田中河内介らは薩摩藩に引き取ると称して船に連れ込み、船内で斬殺され海へ投げ捨てられた。
船内で田中らを斬った柴山矢吉は後に発狂したと伝えられ、鎮撫使側の人間は不幸な末路をたどったものが多い一方で、寺田屋で投降した大山巌・西郷従道ら尊皇派の生き残りは多くが明治政府で要職を得ている。
この寺田屋事件の処置に拠って島津久光に対する朝廷の信望は大いに高まり、公武合体政策の実現(文久の改革)の為に江戸へと向かって行った。
もう一つの寺田屋事件(てらだやじけん)、坂本龍馬襲撃の方は千八百六十六年春三月(旧暦・慶応二年正月の終わり)に寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行配下の捕り方が捕縛ないし暗殺しようとした事件である。
伏見奉行配下の捕り方が寺田屋を取り囲むのを察知した龍馬の愛人・お龍は、風呂から裸のまま二階へ階段を駆け上がり危機を知らせ、龍馬は主に銃で反撃するも左手の親指を負傷しながら逃走した。
龍馬は同宿の養女・お龍の機転と護衛の三吉慎蔵の働きにより危うく回避し、暫くの間は西郷隆盛の斡旋により薩摩領内に潜伏している。
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