箱館戦争(はこだてせんそう)
に於ける旧幕府勢力の最後の抵抗で、幕藩体制清算の最終段階の戦だった。
幕臣海軍副総裁・榎本武揚(えのもとたけあき)ら一部の旧幕臣は新政府への軍艦の引渡しに応じず、悪天候を理由に艦隊を館山沖へ移動する。
恭順派の幕臣・勝海舟(陸軍総裁、後に軍事総裁)の説得で富士山丸など数隻を引渡すが、開陽丸など主力艦の温存に成功した。
榎本に対して仙台藩を中心とする奥羽越列藩同盟から支援要請があり、榎本らは開陽丸を旗艦として八隻からなる旧幕府艦隊(開陽・蟠竜・回天・千代田形の軍艦四隻と咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美嘉保丸の運送艦四隻)を率いて品川沖を脱出し、仙台を目指す。
この榎本艦隊には、若年寄・永井尚志(旗本)、陸軍奉行並・松平太郎(小禄幕臣から出世)などの幕臣重役の他、大塚霍之丞や丸毛利恒など彰義隊の生き残りと人見勝太郎や伊庭八郎などの遊撃隊、そして、旧幕府軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など総勢二千余名が乗船していた。
榎本艦隊は出航翌日から太平洋上で悪天候に見舞われて離散し、運送艦・咸臨丸・美嘉保丸の二隻を失いながらも一ヵ月後には仙台東名浜沖に艦隊が集結し、直ちに艦の修繕と補給が行われるとともに庄内藩支援の為に千代田形と陸兵約百名を乗せた運送船二隻(長崎丸・大江丸)を派遣した。
しかしその頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、松平容保の会津藩を始めとして米沢藩、仙台藩と主だった藩が相次いで降伏し、庄内藩も榎本艦隊の援軍が到着する前に降伏して東北戦線は終結する。
榎本艦隊に拠る庄内藩支援が陸兵約百名と少なかったのは、榎本には蝦夷地に禄を失った旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと言う構想が在り、本気で奥羽越列藩同盟を支援し兵を損なうのを恐れたからである。
松前藩以外の蝦夷地は、幕府直轄地だった。
十九歳で蝦夷幕府直轄地差配箱館奉行・堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現北海道函館市)に赴き、樺太探検に参加した榎本武揚にとって、蝦夷は「魅力的な未開の地」と言う認識が在ったのだ。
榎本武揚は、途中東北列藩同盟側敗戦濃厚な仙台で同盟軍および大鳥圭介・新撰組(しんせんぐみ)の土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力約二千五百名を収容して蝦夷地(北海道)へ向かう。
旧幕府軍は約四千数百の兵力で、ほとんど交戦する事無く藩主が逃げ出した松前藩の箱館五稜郭などを占領し、蝦夷地を平定して蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出する。
新政府がこの蝦夷地支配を認め無い中、旧幕臣は箱館政権を樹立し総裁は入れ札(選挙)に拠って決められ、榎本武揚が総裁となった。
総裁に就任した榎本はイギリス軍艦に改めて嘆願書を仲介してもらうが、新政府はこれを黙殺し新政府軍を派遣する。
新政府軍が蝦夷地に向かう中、旧幕府軍が江差攻略に成功した夜、天候が急変し風浪に押されて旗艦・開陽は座礁、開陽救出の為に到着した軍艦・回天と輸送艦・神速丸の内神速丸も座礁してしまう。
防衛の要となる軍艦・開陽と輸送艦・神速丸を座礁沈没させて失い制海権を失った旧幕府軍は上陸して来た新政府軍と交戦と成り、主戦派の土方歳三が戦死し榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結する。
尚、榎本武揚(えのもとたけあき)は、後年その才能を買われて新政府に登用され、復権を果たし爵位を賜って子爵に叙任されている。
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