榎本武揚(えのもとたけあき)
武揚の父・円兵衛は元の名を箱田良助と言い、備後国・福山藩・箱田村(現広島県福山市神辺町箱田)の出身で、郷士で庄屋・細川家の秀才の誉れが高い次男だった。
箱田良助は、江戸へ出て伊能忠敬の筆頭内弟子天文学・測量学を学び、忠敬に伴って日本各地の測量に歩き、地図の製作にも携わって優れた数学者・測量家として世に知られように成っていた。
師・伊能忠敬が亡く成ると、箱田良助は幕臣・榎本家(家格は御徒士/おかち)の株を五十両(千両説あるも法外な値である)で買い、女子しか子が無かった榎本家の娘と結婚する事で養子縁組みして幕臣となり、榎本円兵衛武規を称して幕府天文方に出仕する。
榎本釜次郎は、この榎本円兵衛武規(箱田良助)の次男に生まれ、幕府御用学者の父に恵まれて幼少の頃から昌平坂学問所で儒学・漢学、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、十九歳で箱館奉行堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現北海道函館市)に赴き、樺太探検に参加する。
その後釜次郎は、幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所、国際情勢や蘭学と呼ばれた西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学び、オランダに留学して国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、江戸幕府が発注した軍艦「開陽」で帰国する。
帰国後、榎本武揚(えのもとたけあき/釜次郎)は軍艦頭並を経て大政奉還後の千八百六十八年(慶応四年)に徳川家家職の海軍副総裁に任ぜられ、実質的に幕府海軍のトップとなった。
新政府側への恭順を示していた徳川慶喜の意向を受けて、幕府海軍総裁・矢田堀景蔵は軽挙を慎んだが、新政府への徹底抗戦を主張する榎本派が実質的に幕府海軍を抑えていた。
将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、続いて戊辰戦争(ぼしんせんそう)が起るも、開戦直後鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、大坂城に居た慶喜らは主戦派の幕臣に無断で大坂の天保山沖に停泊していた旗艦「開陽」に座乗し、榎本の率いる旧幕府艦隊は江戸へ引き揚げた。
新政府軍が江戸城を無血開城すると、徳川家に対する政府の処置を不満とし榎本は抗戦派の旧幕臣とともに軍艦・開陽、回天、蟠竜、千代田形、輸送艦・神速丸、美嘉保丸、咸臨丸、長鯨丸の八艦から成る旧幕府艦隊を率いて脱出する。
榎本武揚は、途中東北列藩同盟側敗戦濃厚な仙台で同盟軍および大鳥圭介・新撰組(しんせんぐみ)の土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力約二千五百名を収容して蝦夷地(北海道)へ向かう。
旧幕府軍は約四千数百の兵力で、ほとんど交戦する事無く藩主が逃げ出した松前藩の箱館五稜郭などを占領し、蝦夷地を平定して蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出する。
新政府がこの蝦夷地支配を認め無い中、旧幕臣は箱館政権を樹立し総裁は入れ札(選挙)に拠って決められ、榎本武揚が総裁となった。
総裁に就任した榎本はイギリス軍艦に改めて嘆願書を仲介してもらうが、新政府はこれを黙殺し新政府軍を派遣する。
新政府軍が蝦夷地に向かう中、旧幕府軍が江差攻略に成功した夜、天候が急変し風浪に押されて旗艦・開陽は座礁、開陽救出の為に到着した軍艦・回天と輸送艦・神速丸の内神速丸も座礁してしまう。
防衛の要となる旗艦・開陽と輸送艦・神速丸を座礁沈没させて失い制海権を失った旧幕府軍は上陸して来た新政府軍と交戦と成り、主戦派の土方歳三が戦死し榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結する。
尚、榎本武揚(えのもとたけあき)は、後年その才を惜しむ黒田清隆(くろだきよたか)の助命嘆願活動が功を奏し明治五年に特赦出獄し、その才能を買われて新政府に登用され復権を果たし、爵位を賜って子爵に叙任されている。
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皇統と鵺の影人
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