土佐藩(とさはん/山内家)
土佐藩(とさはん・高知藩/こうちはん)は廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩で、土佐国は四国の太平洋側の現在の高知県に位置していた。
戦国時代末期、土佐藩の領域は戦国時代末期には長宗我部氏が治めていたが、千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いに於いて長宗我部盛親(長宗我部元親の継子)は西軍に与し改易となる。
豊臣氏恩顧の大名で遠江国・掛川(現在の静岡県掛川市付近)を治めていた山内一豊(やまうちかつとよ)は東軍(徳川家康方)に味方した為に大幅な加増を受けて、土佐一国二十四万二千石(実禄は二十万二千六百石余り)を与えられこの地を治める事となり、以来、明治時代初頭まで山内氏が治めている。
山内氏が豊臣秀吉から土佐一国を与えられ移って来た時、土佐には一領具足と呼ばれた長宗我部氏の旧臣が多数存在しており、彼らは藩政当初より新領主・山内家に馴染まず反乱を繰り返した。
山内氏は、その一領具足の懐柔に力を注いだが、藩政の中枢には彼らを入れず高知城下に住む山内系の武士(上士)と、長宗我部氏の旧臣(郷士)の二重構造が幕末まで続いた。
長宗我部氏遺臣の系譜を引く一領具足の郷士は基本的には在郷武士であり、土佐藩に於いては武士(上士)の下位で下士(足軽)の上位に位置づけられていた。
長宗我部遺臣の不満を解消し、軍事要員として土佐藩の正式な体制に組み込むとともに、新田開発による増収を狙って千六百十三年(慶長十八年)香美郡山田村の開発で取り立てられた慶長郷士がこの制度の端緒となり、その後新田等の開発を行う度に正式な郷士として取り立てられて来た。
この制度が功を奏して領内の開発が進み、千八百七十年(明治三年)の廃藩置県前には土佐藩の公称本田地高とほぼ同規模の新田があり、本・新田の合計は四十九万四千石余に達していた。
幕末の土佐藩には十五代・山内豊信(容堂)が登場し、吉田東洋を藩参政に起用し藩政改革を断行する。
吉田東洋はその藩政改革で保守派門閥や郷士の反感を買い、安政の大獄で豊信が隠居すると武市瑞山(たけちずいざん)を中心とした土佐勤王党により暗殺された。
後に勤王党は、藩政の実権を回復した山内容堂(豊信)の報復を受け、瑞山の切腹や党員が処刑されるなど弾圧・解散される。
武市瑞山一味の暗殺に倒れた藩参政・吉田東洋だったが、東洋の門下より後藤象二郎、乾退助(のちの板垣退助)、岩崎弥太郎ら明治時代を代表する人物を輩出している。
東洋とは反目関係に在った武市瑞山(たけちずいざん)側にも、郷士である坂本龍馬や中岡慎太郎など優れた人材がこの藩より輩出されて居るのは承知の通りで、山内容堂(豊信)の進言で徳川慶喜に拠る大政奉還がなされ、土佐藩は薩長土肥の一角を為して時代転換の大きな役割を演じた。
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注意)、本書でも便宜的に使用しているが、実は「藩(はん)」と言う呼称は江戸期を通じて公用のものではなかった。
従って江戸初期から中期に掛けての時代劇で「藩(はん)や藩主(はんしゅ)」の呼称を使うのは時代考証的には正しくは無い。
幕末近くなって初めて「藩(はん)」と言う俗称が多用され始め、歴史用語として一般に広く使用されるようになったのは維新以後の事である。
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