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孝明天皇(こうめいてんのう)と攘夷論(じょういろん)・下関戦争と薩英戦争

外国人を極度に嫌っていた孝明天皇(こうめいてんのう)は攘夷論者で、朝廷の勅許を得る事なく各国と条約を結んだ幕府に対して朝廷は勅使を江戸へ遣わし攘夷の実行を迫る。

尊皇攘夷を主導していた長州藩が孝明天皇の意を受けて攘夷を決行しアメリカ商船ベンプローク号、フランスの通報艦キャンシャン号、オランダ東洋艦隊所属のメジューサ号を次々に砲撃し損傷を与える。

しかし報復に向かった米仏艦隊の攻撃によって長州藩は手痛い敗北を蒙り、さらにイギリス艦隊が生麦事件の賠償と実行犯の処罰を求めて鹿児島湾(鹿児島市の錦江湾)に侵入するも薩摩藩はこれに応じず薩英戦争が勃発する。

薩摩藩は薩摩側の民間人を含む死傷者九名に対してイギリス側の軍人死傷者六十三名とかなりの善戦をし、鹿児島城下に大きな被害を受けるも、この戦いによりイギリスは薩摩藩の戦力を認め、徳川幕府側との交渉を避け薩摩との直接の和平を結ぶ。

そんな中、朝廷内で実権を握っていた攘夷派公卿らに対して薩摩藩と京都守護職の会津藩が結託してクーデター(八月十八日の政変)を起こし、攘夷派公卿は失脚して都落ちとなり長州藩も朝廷から排除される。

一方の長州は八月十八日の政変後も攘夷の姿勢を崩さなかった為、さらにイギリス軍艦九隻(砲164門)、フランス軍艦三隻(砲64門)、オランダ軍艦四隻(砲54門)、アメリカ仮装軍艦一隻(砲4門)からなる四国連合艦隊の攻撃に合い長州は大損害を蒙って講和する。

この長州藩と、英仏蘭米の列強四国との間に起きた下関戦争(しものせきせんそう)とは、幕末に起きた前後二回にわたる武力衝突事件で、馬関戦争(ばかんせんそう)とも言う。

適わない相手に立ち向かうのは愚である。

尊皇攘夷派は、下関戦争(しものせきせんそう)に於いて圧倒的な欧米列強の「砲火力の差」と言う現実の前にことごとく「攘夷」と言う看板を降ろして居た。

そうなると極度の攘夷論者である孝明天皇は危険な存在で、その父と攘夷の意を同じくし親王宣下を受けて立太子していた睦仁(むつひと)親王も危険な存在だった。

そして孝明天皇の妹の和宮の降嫁を受け孝明天皇と仲の良い十四代将軍・家茂も邪魔な存在で在った事は事実である。

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生麦事件(なまむぎじけん)と薩英戦争(さつえいせんそう)】に続く。
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by mmcjiyodan | 2010-02-04 03:44  

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