天璋院/近衛篤姫(てんしょういん/このえあつひめ)
薩摩藩島津家は七十七万石の大藩の割には支藩は佐土原藩一家のみで、小大名級の所領(一所持)に封じられた分家や庶流を多数抱えていて特に藩主直系の子孫を当主とする四家は「御一門」と呼ばれた。
一門家新設時は加治木島津家(一万七千石)と垂水島津家(一万八千石)がこの家格とされたが、同じ年に成立した重富島津家(一万四千石)も加わり、重富家の前身、越前島津家が室町幕府の直勤だった事から一門家筆頭とされた。
延享元年に今和泉島津家(一万五千石)が成立すると同家も一門家となって、一門家は通称「四家」とも言われ、この「御一門」の呼称が成立するのは正徳年間だが、家格としては元文年間に成立した。
尚、天璋院/近衛篤姫(てんしょういん/このえあつひめ)について、「正室に納まる為に分家出自を幕府に隠していた」とする歴史学者が存在する。
だが、幕府にも御三家・御三卿が存在するのだから、島津家一門家の通称「四家」出自を幕府が認めない事は、幕府自らが御定法に反する事に成る。
大体に於いて篤姫は、江戸に向かう途中で京都の公家・近衛家の養女として近衛篤姫を名乗り徳川家に嫁いでおり、島津分家どころか島津本家以上の格式で江戸城に入ったのが事実である。
今和泉島津家は、五代薩摩藩主(二十二代当主)島津継豊が、十五世紀に絶えた「和泉家」を再興する形で創設した島津氏一門家で、天璋院/近衛篤姫(てんしょういん/このえあつひめ)は今和泉島津家・今和泉(いまいずみ)領主・島津忠剛の娘として生まれた。
天璋院/近衛篤姫(てんしょういん/このえあつひめ)は、将軍・家定との縁組の為に島津本家二十八代当主で従兄・島津斉彬(しまづなりあきら/薩摩藩の十一代藩主)の養女になり本姓と諱は源篤子(みなもとのあつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には藤原敬子(ふじわらのすみこ)と名を改め、篤の名は君号となり篤君(あつぎみ)と呼ばれた。
まず、千八百五十三年(嘉永六年)に連技(分家)・今和泉島津家から本家・斉彬の養女、三年後の千八百五十六年(安政三年)に公武合体派の右大臣・近衛忠煕(このえただひろ/藤原忠煕)の養女と成った年の晩秋十一月、近衛篤姫(このえあつひめ)は将軍家へ輿入れをする。
この時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから、篤姫(あつひめ)は近衛敬子(このえすみこ)又は藤原敬子(ふじわらのすみこ)である。
篤姫(あつひめ)と将軍・家定との縁組について、将軍継嗣問題で一橋派で在った斉彬が天璋院を徳川家へ輿入れさせて発言力を高め、慶喜の次期将軍を実現させようと画策したとする見方がこれまでは一般的で在った。
しかしながら大奥より島津家に対する縁組みの持ちかけは家定が将軍となる以前からあり、将軍継嗣問題とは前後する為に当初の島津家からの輿入れ構想と将軍継嗣問題は「無関係である」とするのが定説となっている。
将軍・家定は虚弱で、子女は一人もいなかった上に正室が次々と早死した為大奥の主が不在で在った。
そこで島津家出身の御台所(広大院)を迎えた先々代将軍・徳川家斉が長寿で子沢山だった事にあやかろうと、大奥が島津家に縁組みを持ちかけた。
篤姫(あつひめ)を御台所に上げる事は島津家側にも好都合で、広大院没後の家格の低下や批判されている琉球との密貿易問題などのを将軍家との姻戚関係を復活させる事で「解消しようとした」と考えられる。
篤姫(あつひめ)は、千八百五十三年(嘉永六年)に薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、その年夏に鹿児島を陸路出立し熊本を経由して江戸藩邸に入り、三年後に右大臣・近衛忠煕の養女となり、その年に第十三代将軍・徳川家定の正室となり、年寄の幾島を伴って大奥に入った。
この間、斉彬(なりあきら)の手足と成って篤姫(あつひめ)の大奥輿入れの実務を担ったのが、「西郷吉之助・隆永(隆盛/たかもり)だった」と言われている。
しかし篤姫の結婚生活は僅か一年九ヶ月の短いもので在った。
千八百五十八年八月十四日(安政五年七月六日)に将軍・家定が急死し、同月には篤姫の後ろ盾とも言える薩摩藩主・島津斉彬までもが死去してしまう。
島津斉彬が推し篤姫が援護する図式だった一橋慶喜(後の第十五代将軍・徳川慶喜)と篤姫(あつひめ)の間は、勝海舟の回想から「仲が悪かった」と伝えられている。
将軍・家定の死を受け篤姫は落飾(仏門に入る)し、天璋院と名乗る。
家定の後継は、時の老中首座の阿部正弘(あべまさひろ)の死後に徳川慶福(後の家茂)派と一橋慶喜派に割れるも、千八百五十八年(安政五年)、老中・松平忠固や紀州藩付家老職・水野忠央ら南紀派の政治工作により井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任する。
江戸幕府の大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)は一橋慶喜派を強権弾圧して強引に徳川慶福(後の家茂)を第十四代将軍としてしまう。
米国ペリー艦隊の来航以来外圧に苦しんでいた幕府は公武合体政策を進め、千八百六十二年(文久二年)には朝廷から家茂の正室として時の天皇・孝明天皇(こうめいてんのう)の妹、皇女・和宮が大奥へ入る事になる。
薩摩藩は天璋院に薩摩帰国を申し出るが、天璋院自身は拒否して江戸で暮らす事を選んだ。
既に薩摩藩の実権は、島津久光(しまづひさみつ)に握られていたのだ。
皇女・和宮と天璋院は「嫁姑」の関係にあり、皇室出身者と武家出身者の生活習慣の違いも在ってか当初不仲だったが、後には和解したと言われ、慶喜の大奥改革に対しては、家茂の死後落飾して「静寛院宮(せいかんいんのみや)」と名乗っていた和宮と共に徹底的に反対している。
千八百六十七年(慶応三年)十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還をし、その後に起きた一連の戊辰戦争で徳川将軍家は存亡の危機に立たされ、天璋院(てんしょういん)と静寛院宮(せいかんいんのみや)は島津家や朝廷に嘆願して徳川の救済と慶喜の助命に尽力しこれを実現した。
そして天璋院/篤姫(てんしょういん/あつひめ)は、江戸城無血開城を前にして大奥を立ち退いた。
晩年の天璋院(てんしょういん)は自由気ままな生活を楽しみ、東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸で暮らして生活費は倒幕運動に参加した島津家からは貰わず徳川家からの援助だけでまかない、あくまで徳川の人間として振舞って勝海舟(かつかいしゅう)や静寛院宮(皇女・和宮)とも度々会っていた。
尚、将軍・家定に嫁いで以降、天璋院/篤姫(てんしょういん/あつひめ)は生涯を通して故郷・鹿児島に戻る事は無かった。
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