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後小松天皇(ごこまつてんのう)と将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の不可解

南北朝並立時代が始まり、一方の当事者・後醍醐天皇が崩御されて(亡くなって)十年ほどする頃、勢力は次第に衰えて吉野宮も陥落する。

だが、南朝方はその後も抵抗を続けて四十五年間がんばり、一度三代将軍・足利義満の時代に和解、「三種の神器」も引き渡すが「明徳和約」による約束を反故にされる。

その後【持明院統が交代で皇位を渡さなかった為に、また吉野を本拠に抵抗を始め、更に「後南朝」に拠る五十年余の抵抗の歴史が存在する。
南朝苦難の百年間である。

一方の持明院統の方であるが、こちらにも色々在った。

足利氏の後押しで、北朝が圧倒的に有利となり南朝は紀伊半島の山岳部などに追いやられて、この優勢に北朝の天下は順調に事が進んだかに見えたが北朝の系統にも疑問を投げかける歴史家もいる。

現世に於いて、神の分身である帝の下す天罰は、勘解由小路(賀茂)党が具現化する役目を負って来た。

しかし南北朝並立の動乱期を節目に、その勘解由小路(賀茂)党が四散して帝の影の力(天罰)が直接周囲に及び難くなった事が、弱体化したまま足利幕府の上に乗った北朝・天皇家と朝廷の姿である。

足利尊氏には将軍に成る野心は有ったが、最初から天下を取る自信が有った訳ではない。

実際、旗揚げはしたものの茨の道で、一度は北畠顕家との京での戦いに敗れ九州に逃れて再起を果たし後醍醐帝を吉野に追う事に成功したが決定打が無く南北朝並列の不安定な幕府の運営を強いられた。

その後、足利尊氏の開いた足利家の室町幕府が絶対的な権力を握るには、第三代将軍・義満の時代に南北両朝が和解するまで待たねば成らなかった。

尚、室町幕府の「室町」と言う呼称は、足利氏幕府絶頂期の三代将軍・足利義満が将軍の公邸として造営した室町殿(通称・花の御所、現在の京都市上京区)に由来している。

南北朝時代突入から約四十五年、足利第三代将軍・義満の時代は室町幕府が最盛期の頃である。

北朝第五代・後円融天皇(通算第九十九代)の南朝第四代・後亀山天皇の時代に両朝廷は一旦和解した。

「明徳和約」をもって、南朝・後亀山天皇から北朝の後円融天皇(北朝五代)の皇子「後小松天皇(第百代)に和解の上に繋がれた事に成っている。

しかし、この南北朝が和解した「明徳和約」上の統合皇位継承者・後小松天皇には不可解な噂が付きまとっている。

この、後小松天皇には「出生疑惑が有る」と言うのだ。

彼の実の父は、当時並ぶもの無き権力者の将軍「(足利)義満だ」と言う説である。

そして後小松天皇の父君であらせられる先帝・後円融天皇(ごえんゆうてんのう/北朝第五代・歴代第九十九代)は、「自殺した」と言うのだ。

この恐るべき噂はまことしやかに都の巷間に流れて居り、原因は病弱だった後円融天皇が時の権力者足利将軍・義満に飾り者にされ皇后・妃三人を次々犯され、反撃も出来ず「世を儚んで命を絶った」と言う噂が流れた。

決果、皇后から生まれた後小松天皇は、将軍義満の種で「皇統は途絶えた」と言う噂である。

後小松天皇(ごこまつてんのう/北朝第六代・歴代第百代)と将軍・足利義満(あしかがよしみつ/室町三代将軍)の不可解な関係に於いても、後円融帝が虚弱精子劣性遺伝だった可能性も否定できず、北朝系の皇統は河内源氏・足利氏嫡流家に完全に入れ替わって居たのかも知れない。

もっとも足利家も、清和源氏河内流れの皇統を持つ皇胤貴族の出であるから、例えそうだとしても厳密に言えば皇統が途絶えた訳ではない。

この噂を「根も葉も無い」と切って棄てる訳に行かないから不可解な疑惑となった。

噂の傍証として挙げられるのが、将軍・足利義満の冊封(さくふう)騒ぎと朝廷より「太上天皇(だいじょうてんのう/だじょうてんのう)」の尊号を下賜されそうに成った事である。

将軍・足利義満は、将軍職を第四代・義持に譲ると朝廷・帝を差し置いて勝手に中華・明朝の洪武帝から「日本国王」の称号を得ている。

これは明らかに明国からの冊封(さくふう)であり、国際認知から言えば、天皇ではなく足利義満が国家元首である。

冊封(さくふう)とは多分に建前の部分(形式的)ではあるが、或る種「国際秩序」の形成に欠かせないもので在ったのだ。

中国を中心にした「国際秩序」の形成は、交易などの為の国家間認知として当時無くてはなら無いもので、それが、冊封(さくふう)朝貢(ちようけん)の制度である。

すなわち、多分に実効性は無いが、建前中国に臣下の礼(属国の体裁)をとる事で中華帝国承認国家と言う或る種の国際関係の形式を成立させていたのだ。

つまり、近隣国の存在を国際的に認定する役目を、中国歴代帝国の皇帝は長い事負っていた。

冊封(さくふう)は、近隣国の権力者(小国の王)が中国皇帝から形式的に官位をもらう事で、その対外的地位を義満は使者を送る朝貢(ちようけん)により「日本国王」の称号を獲得していた。

更に後小松天皇の出生疑惑の決定的な事実として、「太上天皇(だいじょうてんのう)」の尊号下賜騒ぎがある。

太上天皇(だいじょうてんのう)は、本来皇位を後継者に譲った天皇に送られる尊号で、上皇(じょうこう)と略す場合が多く、法王または「院」と称されるも事多い。

そのとんでもない「太上天皇(だいじょうてんのう)」の尊号を、足利義満の死後ではあるが、朝廷・後小松天皇より賜って息子の四代将軍・義持が慌てて辞退しているが、この本来在り得ない話も後小松天皇の実父疑惑が事実なら在り得そうな話である。

その後、「明徳和約」に反して足利氏・北朝方は南朝方に天皇の位を回さなかった為に、南朝方はまたも吉野に潜行(後南朝)およそ五十年のゲリラ戦を展開する。

この「後南朝方再挙」の動きそのものが、「足利義満・北朝乗っ取りが原因」とする研究者もいる。

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詳しくは小論・【後小松天皇(ごこまつてんのう)出生疑惑】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2010-02-13 01:04  

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