三浦義澄(みうらよしずみ)
三浦義澄(みうらよしずみ)は相模国三浦郡矢部郷の出身で、坂東八平氏と並び称される桓武平氏(桓武天皇の皇子・葛原(かずはら)親王流)の流れを汲む三浦氏の一族で、三浦介義明(みうらのすけよしあき)の次男である。
本来の三浦姓は御浦(みうら)で、御厨(みくりや)・御園(みその)と同じ意味で「御(神の)」と言う意味である。
それで、神職ではない武士が「御(神の)」を名乗るのは恐れ多いから「御(み)を三(み)に変えて名乗った」とされている。
義澄(よしずみ)の妻は伊豆伊東荘の豪族・伊東祐親(いとうすけちか)の娘だが名は不明。
平安末期、千百五十九年(平治元年)の平治の乱では、義澄(よしずみ)は頼朝の父・義朝の長男・源義平(みなもとのよしひら)に従うが、平家方に敗れて京都から郷里の相模国矢部に落ち延びる。
その後兄で三浦氏継嗣の杉本義宗が亡くなり、義澄(よしずみ)が三浦氏の家督を相続する。
千百八十年(治承四年)に源頼朝が石橋山の戦いで挙兵した際には頼朝方として出陣するも、悪天候の為増水した丸子川(酒匂川)を渡れず、参戦できずに引き返す途中で平家方の畠山重忠との間で衣笠城合戦となり、父・義明を討ち死にさせてしまう結果となった。
その後三浦義澄(みうらよしずみ)ら三浦氏の郎党は、平家方との衝突を避け海路安房国へ一時撤退するが、房総半島へ渡って来た頼朝軍と合流し、後に頼朝に帰伏した畠山重忠らと共に鎌倉に入る。
頼朝方の関東での優勢が揺ぎ無いものに成りつつ在ったこの頃、義澄(よしずみ)は平家側についていた妻の父である伊東祐親(いとうすけちか)が捕らえられてその身を預かる事となる。
義澄(よしずみ)は頼朝に助命を嘆願して祐親の事を許させるが、しかし祐親(すけちか)は自分の娘と頼朝の間に出来た子を殺した事を恥じて自害してしまう。
頼朝が関東を制圧すると、三浦義澄(みうらよしずみ)は千葉常胤・上総広常・土肥実平らと共に頼朝の宿老となり、その後も、一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦い、奥州合戦に参戦して武功を挙げる。
鎌倉幕府が成立すると、頼朝方に付いた義澄(よしずみ)は鎌倉幕府の有力御家人となり、頼朝が死去した後には二代将軍源頼家を補佐する十三人の合議制の一人となる。
頼朝が死去の翌年、義澄(よしずみ)は梶原景時の変で梶原景時の鎌倉追放に加担し、梶原一族が討たれた僅か三日後に病没している。
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