大江広元(おおえのひろもと)
幕府を開いて政権を運営すると成ると武官ばかりではなく文官も必要と成り、源頼朝の側近に大江広元(おおえのひろもと/中原)が幕府御家人として登場する。
鎌倉幕府の政所初代別当をつとめ、幕府創設に貢献した大江広元(おおえのひろもと)は、始めは朝廷に仕える下級貴族(官人)、つまり朝臣だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となった人物である。
大江広元(おおえのひろもと)の出自は諸説あり、一説には「江氏家譜」に於いて藤原光能の息子で、母の再婚相手である中原広季のもとで養育されたとされ、また、一説には「尊卑分脈」所収の「大江氏系図」に於いて大江維光を実父、中原広季を養父とし、逆に「続群書類従」所収の「中原系図」では中原広季を実父、大江維光を養父としているなどその詳細は不明である。
広元(ひろもと)は当初、中原姓を称して中原広元(なかはらのひろもと)と名乗っていた。
大江姓に改めたのは、晩年に陸奥守に任官した以後の事である。
源頼朝が坂東(関東)を制圧し鎌倉に本拠地の館を構えた頃、中原広元(なかはらのひろもと)は兄・中原親能 (なかはら の ちかよし)の縁で頼朝の拠った鎌倉へ下り公文所の別当となる。
広元(ひろもと)の兄・中原親能(なかはらのちかよし)は源頼朝と親しく、早くから京を離れて頼朝に従っている。
中原親能は、千百八十三年(寿永二年)に源義経の軍勢と共に上洛し、翌年の正月にも再度入京して頼朝代官として万事を取り仕切り、貴族との交渉で活躍していた。
源頼朝が二品右大将(右近衛大将/うこんえのだいしょう)となり公文所を改めて政所としてからは、広元(ひろもと)はその別当として主に朝廷との交渉にあたり、その他の分野にも実務家として広く関与し、「吾妻鏡」に拠ると頼朝が守護・地頭を設置したのも「広元の献策に拠る」とされている。
さて、鎌倉幕府のブレーンとして活躍した大江広元(おおえのひろもと)のその後であるが、頼朝の死後の広元(ひろもと)は、北条義時や北条政子と協調して幕政に参与し、承久の乱の際は嫡男・大江親広が官軍に就いた為、袂を分かつ悲運に直面する。
しかし承久の乱に際しては強行に即時出兵論を支持した。
広元(ひろもと)は嫡男・大江親広をあきらめて、あくまで鎌倉方に立って主戦論を唱えた北条政子に協調、朝廷との一戦には慎重な御家人たちを鼓舞して幕府軍を勝利に導いた功労者のひとりとなる。
和田義盛の乱に際しては、軍勢の召集や所領の訴訟に於いて広元(ひろもと)が二代執権・北条義時とともに「連署」をした文書が存在する。
また頼朝が強い繋がりを持っていなかった公家・土御門通親(つちみかどみちちか)などの公卿とも独自の連絡網を持っていた事なども明らかになっていて、広元(ひろもと)の存在は単に鎌倉における京吏の筆頭であるばかりではなく、政策の決定や施行にも影響力を行使し得る「重要な地位を占めるものだった」と、指摘されている。
尚、広元長男・大江親広は政所別当・京都守護などの幕府要職を歴任するが、承久の乱で朝廷方に付いて敗走し、出羽国寒河江荘に籠もり、その子孫は寒河江氏などに繋がると伝えられる。
特記すべきは、広元四男・毛利季光が宝治合戦で三浦泰村に味方して三浦一族とともに源頼朝持仏堂であった法華堂で自害するも、その四男・毛利経光は越後に居た為に巻き込まれず所領を安堵され、そのまた経光の二男・時親は伊豆南条と安芸吉田庄を相続し、戦国大名・安芸毛利家の始祖となって毛利元就に繋がっている事である。
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