伊豆の国長岡・あやめ御前と源頼政の物語
この「古奈」であるが、伊豆の国(いずのくに)が伊都国(いとこく)と考えると、「古奈良」の可能性がある。
そもそも「古奈」の地名は、事代主命の后神である伊古奈比咩命(いかなひめのみこと)から「名を貰っている」と考えられ、辻褄が合うのである。
伊豆の国「古奈」の美しい娘は、長じて京に上り近衛の院(近衛天皇)に仕え、その美しさ は宮内随一と謳われた「あやめ御前」となる。
この朝廷内裏(ちょうていだいり)への「あやめ御前」の出仕、常識的に朝廷と縁の無い田舎娘が簡単に出来る訳が無い。
つまり、「朝廷と伊豆の国の間に強い関わりが存在した」と考えるべきである。
やがて鵺(ぬえ)退治の誉れ高い、源(三位)頼政と恋に落ち、結ばれて幸せな時を過ごす。
処が、以仁王(もちひとおう)が、密かに発した「平家追討の令旨(りょうじ)」に頼政が呼応、武運拙く宇治川の露と消え、「あやめ御前」は伊豆長岡町古奈の里で頼政の霊を弔いながら八十九年の生涯を閉じたのである。
平清盛一族(平家)の専横に怒った後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)の令旨が発せられる。
するとこの時、平家全盛の折に源氏の武士でありながら宮中に大内(だいり・御所)守護として使えていた源(三位)頼政は、京に在って源頼朝や木曾(源)義仲より早く、大内(だいり・御所)守護として立ち上がる。
村上源氏流れ・鵺(ぬえ)退治の源頼政は、嫡子で前伊豆守の源仲綱や源宗綱、養子の源兼綱らと共に清盛一族(平家)打倒の最初の挙兵を行い、宇治橋の合戦にて無念の討ち死を果たしているのである。
源頼政の行動は源氏や平家ではなく、最期まで大内(だいり・御所)守護としての立場を貫いた皇統護持だった。
源(三位)頼政が伊豆の国(いずのくに)長岡出身の「あやめ御前」と結ばれた縁で、伊豆の国市長岡では、「鵺祓い(ぬえばらい)祭」が新春の行事として執り行われている。
あやめ御前の父親は、一時伊豆に配流になった「貴族の藤原為明」とも言われているが、確たる証拠はない。
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