仁田忠常(にったただつね/仁田四郎)
源頼朝が挙兵するとその家人(家臣)と成る。
平家追討に当たっては源範頼の軍に従って各地を転戦して武功を挙げ、奥州合戦(奥州藤原氏討伐)に於いても戦功を挙げ、鎌倉幕府創立に武功を挙げている。
また富士の裾野で起こった大事件、曾我兄弟の仇討ちの際には忠常が兄の曾我十郎祐成(そがのじゅうろうすけなり)を討ち取っている。
忠常が危篤状態に陥った時、頼朝が自ら見舞うほど頼朝からの信任は厚かったと伝えられ、頼朝死後は二代将軍・源頼家に仕えた。
仁田忠常は、その二代将軍・頼家からの信任も厚かったのだが、運命の歯車が突然狂う事件が起きる。
二代将軍・頼家が病で危篤状態に陥り、忠常は時政邸に呼び出された頼家の外戚・比企能員(ひきよしかず)を北条時政の命に従い謀殺した。
所が、頼家が病から回復すると比企氏が北条時政によって滅ぼされたと知り、激怒した頼家は北条追討の将軍命令(御教書)を発した為、仁田忠常は逆に頼家から時政討伐の命令を受ける事に成る。
そんな状況下で、仁田忠常は頼家の命を受けながらも能員追討の賞を受けるべく時政邸へ向かい、その帰宅の遅れを怪しんだ弟達が騒ぎを起こしてしまう。
その軽挙から北条氏側に頼家方寝返りの疑いをかけられ、時政邸を出て御所へ戻る途中で北条義時の命に拠って加藤景廉(かとうかげかど)に、弟(五郎忠正・六郎忠時)らと共に滅ぼされる。
仁田忠常(にったただつね)は、所謂(いわゆる)比企能員の変(比企の乱)に巻き込まれた訳である。
伊豆仁田(静岡県田方郡函南町仁田)には、忠常の墓と館跡がある。
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皇統と鵺の影人
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