日吉神社(日枝神社)と豊臣秀吉
その日吉神社では、大巳貴神(オオナムチノカミ)と、大山咋神(オオヤマクイノカミ)を祀っている。
この大巳貴神(オオナムチノカミ)は、大国主(オオクニヌシ神)と言った方が通りが良いかも知れないつまり別名は大黒様である。
神話に於いて大巳貴神(オオナムチノカミ/大国主神)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の前に地上(豊葦中津国)を支配していた王で、天照大神(あまてらすおおみかみ)に国譲りをして後に出雲大社の神となった。
大山咋神(オオヤマクイノカミ)は、もともと近江(滋賀)の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)一帯を治める山の神だった。
史書に拠ると、滋賀の日吉大社では、東本宮に大山咋神(オオヤマクイノカミ)を祀り、西本宮に大己貴神(オオナムチノカミ/大国主神)を祀っている。
その滋賀・日吉大社では、最初に在ったのはそれとは別の牛尾山山頂の奥宮で、東本宮は里宮として創建されたらしいが、その年代が崇神大王(すじんおおきみ/天皇)七年と伝えられるから紀元前九十年となり、何処まで本当か定かではない。
公称創建とされる年代から凡そ七百八十年の後、滋賀・日吉大社は大津京を守る神として大神神社の大己貴神(オオナムチノカミ)を勧請して、それが大山咋神(オオヤマクイノカミ)よりも格上だとして大巳貴神(オオナムチノカミ)を大宮と称するようになる。
その滋賀・日吉大社は、七百九十四年の平安京遷都に拠って都の鬼門に当たる事から、鬼門除けの神社として出世する事になる。
それから約十二年後の八百六年(大同元年)、伝教大師(でんぎょうだいし/最澄)が中国で修行を終えて帰国し、比叡山に延暦寺を建立した際に古くからこの山の神だった大山咋神(オオヤマクイノカミ)を寺の守護神とした。
大山咋神(オオヤマクイノカミ)は、比叡山の王と言う事で山王と呼ばれ、また、中国・天台宗の本山(国清寺)に祀られていた山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)にちなんで山王権現、日吉山王や日吉権現などとも呼ばれるようになって全国に分社が創建された。
伝教大師(でんぎょうだいし/最澄)の天台宗が興した神道の一派を山王神道と言い、山王権現や日吉山王、日吉権現は天台宗の布教活動の中で全国に広まり、日吉神社が増えて行った。
比叡山の前の名が日枝山(ひえのやま)である事から日枝神社(ひえじんじゃ)ともよばれる。
清洲山王宮・日吉神社もその一つで、清須城下の総鎮守神として奉られてるのだが、その使い神が「猿」である所から後の脚本作家が秀吉のあだ名として採用した感が強い。
日吉神社の使い神は「猿神様」であり、日吉神社の別称が山王神社・・・つまり「山の王」とも言う事が、或いは「山窩(サンカ・サンガ)の王」を暗示させて居まいか?
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