飛鳥京(あすかきょう)・飛鳥時代(あすかじだい)
これは草創期の十六年間(古墳時代末期)を重ねている為、五百九十三年(推古大王/第三十三代女帝元年)に聖徳太子が摂政になってから、六百九十四年(持統天皇/第四十一代女帝八年)の藤原京への移転までの、約百二年間を飛鳥時代と称する場合もある。
藤原京(ふじわらきょう)の名称は近代に作られた学術用語で、当時は新益京(あらましのみやこ)と呼ばれ、七百十年(和銅三年)に平城京に遷都されるまで持統・文武・元明の三天皇が居住した十六年間は日本の首都であったが、飛鳥時代(あすかじだい)に含まれている。
その後の平城京の時代を「奈良時代」、平安京の時代を「平安時代」と言う。
飛鳥時代は、現在の奈良県高市郡明日香村一帯に在った大王(おおきみ)の御座所群、つまり多くの期間はこの地域に大王(おおきみ/天皇)の宮が置かれており、「王宮が所在した」と言う意味で飛鳥京 (あすかきょう、あすかのみやこ) と呼称される。
しかし飛鳥京(あすかきょう)は、後の律令国家成立期以後の新益京(あらましのみやこ/藤原京)や平城京のように全体計画のもとに造営された都城とは違い、京と呼ぶほどの宮都の体裁を成しては居なかった。
つまり「飛鳥京跡」は、飛鳥地域に散在するこれら時期の異なる宮や邸宅、寺院などの建造物、市や広場、道路など都市関連遺跡の便宜上の総称に過ぎない。
ちなみに、飛鳥古京宮群と大王(おおきみ)の御座の関係は豊浦宮(推古大王/第三十三代朝)、小墾田宮(推古大王朝、皇極大王/第三十五代朝)、岡本宮(前飛鳥岡本宮、舒明大王/第三十四代朝)、板蓋宮(皇極大王朝、斉明大王/重祚して第三十七代朝)、川原宮(斉明大王朝)、岡本宮(後飛鳥岡本宮、斉明大王朝)、飛鳥浄御原宮(天武大王/第四十代朝、持統大王/第四十一代朝)とされている。
その存在さえ危ぶまれる「聖徳太子(しょうとくたいし)=厩戸皇子(うまやどのみこ)が居た」とされる時代もこの飛鳥時代だった。
この飛鳥京(あすかきょう)時代に大きな力を持っていたのが最有力豪族と成っていた蘇我氏の、蘇我稲目(そがのいなめ)、蘇我馬子(そがのうまこ)、蘇我蝦夷(そがのえみし)、蘇我入鹿(そがのいるか)と続いた所謂(いわゆる)蘇我御門一門だった。
そして、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・葛城皇子)や中臣鎌足(藤原鎌足)らに蘇我入鹿(そがのいるか)が宮中で襲われた乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)の変事もこの飛鳥京(あすかきょう)時代(古墳時代末期)の出来事だった。
この飛鳥京(あすかきょう)の末期に即位した天武大王(てんむおおきみ/第四十代朝)には、この章で後述するが、皇統簒奪の疑惑があり、何故かそれまで大王(おおきみ/治天下大王・あめのしたしろしめすおおきみ)の称号を用いていた大和王権の長が、天皇(てんのう/すめらみこと)の称号を用いるようになった。
天皇(てんのう/すめらみこと)の称号を用いるようになったのは、この飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)を御座所とした疑惑の大王(おおきみ)・天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)が「天皇」の称号を採用したのではないかと推測されている事と、皇統簒奪疑惑が一致しているのだ。
そしてこの飛鳥期、大王(おおきみ)の威光がどの程度の力をどの程度の範囲まで届いていたかさえまだまだ確定はしていない。
【藤原京(ふじわらきょう)】に続く。
【古墳時代(こふんじだい)】に戻る。
参考小論【大和(やまと)のまほろば(マホロバ)】に飛ぶ。
この記述は、【日本史時代区分大略・一覧表】に掲載しております。
関連記事
【大王(おおきみ)=天皇(てんのう)】に飛ぶ。
【推古天皇(すいこてんのう)】に飛ぶ。
【聖徳太子(しょうとくたいし)=厩戸皇子(うまやどのみこ)】に飛ぶ。
【中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・葛城皇子)】に飛ぶ。
【乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)】に飛ぶ。
【大海人皇子(おおあまのみこ)の疑惑】に飛ぶ。
【新益京(あらましのみやこ/藤原京)】に飛ぶ。
【平城京(へいじょうきょう)】に飛ぶ。
【長岡京(ながおかきょう)】に飛ぶ。
【平安京(へいあんきょう)】に飛ぶ。
【第一巻の二話】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ】
<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)
未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくる」<=このブログのランキング順位確認できます。by mmcjiyodan | 2010-03-02 01:09