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藤原京(ふじわらきょう)=新益京(あらましのみやこ)

藤原京(ふじわらきょう)の名称は近代に作られた学術用語で、当時は新益京(あらましのみやこ)と呼ばれ、飛鳥京(あすかきょう)の西北部、現・奈良県橿原市に所在する日本史上最初で最大の都城である。

つまり藤原京(ふじわらきょう)の京域は新益京(あらましのみやこ)と呼ばれ、大王(おおきみ)の御座所(宮)が「藤原宮(ふじわらのみや)」と呼び分けられていた。

また、新益京(あらましのみやこ/藤原京・ふじわらきょう)は日本史上最初の条坊制(じょうぼうせい)を布いた本格的な中国風都城でもある。

この都城は、中華・周王朝の理想的な制度について周公旦(しゅうこうたん)が書き残した思想書「周礼(しゅらい)」が説く思想制度を表現しているとされている。

持統大王(じとうおおきみ/天皇・第四十一代持統朝)の御世、六百九十年(持統四年)に藤原京(ふじわらきょう)は公式着工され、四年の歳月を経て六百九十四年(持統八年)に遷都した。

この藤原京(ふじわらきょう)=新益京(あらましのみやこ)に首都が在った百年間の時代区分は飛鳥京(あすかきょう)の時代に続き飛鳥時代(あすかじだい)である。

しかし新益京(あらましのみやこ/藤原京・ふじわらきょう)の実際の着工は、天武大王(てんむおおきみ/第四十代天武朝)の五年(六百七十六年)には始まっていて、完成は遷都後十年経過の七百四年(景雲元年)と言うのだから、二十八年の歳月を要した事に成る。

そしてこの新益京(あらましのみやこ)への遷都計画の頃から、天武大王(てんむおおきみ)の意を受けて修験道の祖と言われる「役小角(えんのおづぬ・賀茂役君小角/かものえのきみおづの)」が活動を始め、古事記日本書紀の編纂が始まっているのである。

新益京(あらましのみやこ)のその規模は、大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香具山)を内に含む十里(5.3キロ)四方で少なくとも25平方キロあり、平安京(23平方キロ)平城京(24平方キロ)を凌ぎ古代最大の都で在った。

大王(おおきみ)の御座所(宮)・藤原宮(ふじわらのみや)は、周囲を凡そ五mほどの高さの塀で囲み、東西南北の塀にはそれぞれ三ヵ所、全部で十二ヵ所に門が設置されほぼ一キロ四方の広さだった。

新益京(あらましのみやこ)は、七百十年(和銅三年)に平城京(へいじょうきょう)に遷都されるまで持統・文武・元明の三大王(おおきみ/天皇)が居住し、十六年間の間日本の首都で在った。

平城京(へいじょうきょう)】に続く。

参考小論【大和(やまと)のまほろば(マホロバ)】に飛ぶ。

この記述は、【日本史時代区分大略・一覧表】に掲載しております。

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by mmcjiyodan | 2010-03-03 01:09  

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