平城京(へいじょうきょう)・奈良時代(ならじだい)
奈良の地にこの都・平城京(へいじょうきょう)を置いた日本の時代を「奈良時代」と呼ぶ。
つまり平城京(へいじょうきょう)は、二十八年の歳月をかけて藤原京(ふじわらきょう)から遷都された奈良時代の通算百四年間の間大和朝廷の都である。
この都、中華帝国・唐の都「長安」や北魏の洛陽城などを「模倣して建造された」とされ、現在の奈良県奈良市および大和郡山市近辺に位置していた「奈良の都」である。
藤原京から平城京への遷都は七百七年(慶雲四年)に審議が始まり、翌・七百八年(和銅元)には元明天皇(げんめいてんのう/第四十三代)により遷都の詔(みことのり)に「都と言うものは百官の府であり四海の人々が集まる所である。
平城の地は三方が山に囲まれ南が開け占いにも適っている。」が出された。
しかし、七百十年(和銅三年)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられ、平城京の寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまでに段階的に造営されて行った。
平城京遷都から三十年、七百四十年(天平十二年)には聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)に拠る恭仁京(くにきょう)への遷都によって平城京は一時的に放棄される。
その平城京放棄の原因となったのが藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)で、広嗣(ひろつぐ)は政権への不満から九州の大宰府で挙兵したが官軍によって鎮圧された。
しかし乱の鎮圧の報告がまだ平城京に届かないうちに、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)は突如「坂東(関東)に下る」と言い出し都を出てしまい、伊賀国、伊勢国、美濃国、近江国を巡り恭仁京(山城国)に移った後、難波京へ移りまた平城京へ還ってと遷都を繰り返すようになる。
聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)に拠って平城京から遷都された恭仁京(くにきょう、くにのみや)は、奈良時代の一時期、都が置かれた山背国相楽郡の現在の京都府木津川市に位置する地である。
しかし僅か五年後、七百四十五年(天平十七年)に再び恭仁京(くにきょう)から平城京に遷都され、その後七百八十四年(延暦三年)、長岡京(ながおかきょう)に遷都されるまで七十四年間に渡り都が置かれ政治の中心地で在った。
ちなみに、奈良期に遷都を繰り返した臆病な聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)は聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代・大海人皇子)の系図で、五代後に現れる日本史上最強の桓武大王(かんむおおきみ/第五十代天皇)は、天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇・中大兄皇子)の系図である。
何しろ少し遡った時代が、皇統に疑惑が重なった時代だった。
或いは歴史に現れない皇統の継承問題が、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)の不安を膨らませたのかも知れない。
山城国に遷都した後、平城京(へいじょうきょう)は南都(なんと)とも呼ばれた。
【長岡京(ながおかきょう)】に続く。
参考小論【大和(やまと)のまほろば(マホロバ)】に飛ぶ。
この記述は、【日本史時代区分大略・一覧表】に掲載しております。
◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。
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