長岡京(ながおかきょう)
しかし長岡京(ながおかきょう)は近年まで「未完成で放棄された」と定説され、永い事その存在が確認されず「幻の都」とされていた。
漸くその長岡京(ながおかきょう)の存在が現実のものと確認されたのは、千九百五十四年(昭和二十九年)から発掘が開始され、翌千九百五十五年(昭和三十年)に大内裏朝堂院の門跡が発見されて調査が進んだ事にあった。
発掘の結果、長岡京(ながおかきょう)は未完成で放棄されたとした従来の定説と異なり、難波宮や他の旧宮、平城京の建造物を移築し、平城京、平安京と並ぶ京域を持つかなり完成した姿で在った。
為に長岡京(ながおかきょう)は、その期間の短さから本来の目的は山背国の平安京で、「方違え」の為の「形だけの遷都では無かったのか」と言う説を採る学者も居る。
長岡京(ながおかきょう)に首都が在った十年間の時代区分は、平城京(へいじょうきょう)の時代に続き奈良時代(ならじだい)である。
長岡京(ながおかきょう)は、平城京から北へ四十kmの長岡の地に遷都して造営され、苦しんでいた上下水道や陸路での大量輸送などに平城京(へいじょうきょう)の地理的弱点を巧みに克服しようとして淀川三水系(桂川、宇治川、木津川)の合流を利用した利水都市であった。
しかし長岡京(ながおかきょう)遷都後、桓武帝の側近で長岡京造営の責任者・藤原種継が遷都に反対する勢力に暗殺され、桓武天皇の異腹の弟で皇太弟(次の天皇)に指名していた早良親王(さわらしんのう)もこの反逆に組していた事が明らかになり、早良親王が配流される事件が起こる。
廃太子の上配流された早良親王(さわらしんのう)は、配流中に抗議の絶食をして命を断って居る。
この処置の後に、日照りによる飢饉、疫病の大流行や大雨が襲い都の中を流れる川が氾濫被害、皇后や皇太子の発病と次々に災害と身内の不幸が続き、神の威光を持って統治する桓武天皇はその徳を民衆に疑われる事を恐れて長岡京(ながおかきょう)遷都の僅か十年後に再び平安京(へいあんきょう)へ遷都を決断する。
【平安京(へいあんきょう)】に続く。
参考小論【大和(やまと)のまほろば(マホロバ)】に飛ぶ。
この記述は、【日本史時代区分大略・一覧表】に掲載しております。
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