持統大王(じとうおおきみ/女帝)
第一皇子・大友皇子(明治期の追認天皇・弘文天皇/こうぶんてんのう)に皇位を継がせたかった天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)だったが、その死後に起きた壬申の乱に於いて同母弟・大海人皇子(天武天皇)が大友皇子に勝利して即位して皇統が代わっていた。
天智大王(てんちおおきみ/天皇・中大兄皇子)を父に持つ鸕野讚良(うののさらら・うののささら/後の第四十一代持統大王朝)は、「革命」に成功し、皇統の系図を書き換えて天智大王(てんちおおきみ/天皇)の弟に納まり「第四十代天皇を継いだ」と言う「大疑惑」の大海人皇子(おおあまのみこ・天武天皇)と結婚する。
斉明大王(さいめいおおきみ/天皇・女帝)三年、鸕野讚良(うののさらら)十三歳の時に正史上は叔父とされる大海人皇子(後の天武天皇)に嫁し、その四年後には夫・大海人皇子とともに斉明大王(さいめいおおきみ/第三十七代女帝)に随行し、九州まで行ってその地で草壁皇子(くさかべのみこ)を産む。
夫・天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)が即位して五~六年頃、同じく天智に嫁して大津皇子(おおつのみこ)を産ん居た姉の大田皇女(おおたのひめみこ)が亡くなって鸕野讚良(うののさらら)は、妃としての序列が最高位になる。
大王后妃・鸕野讚良(うののさらら)は、夫・天武大王(てんむおおきみ/天皇)が死別すると、皇位継承に息子・草壁皇子の強力なライバルである姉の皇子・大津皇子を謀反の容疑発覚で自殺に追い込み、草壁皇子を皇位継承者として準備するも、草壁皇子が病死してしまう。
草壁皇子の子・軽皇子(後の文武天皇)は当時七歳と幼く、鸕野讚良(うののさらら)は軽皇子の成長を待つ為に自ら即位し持統大王(じとうおおきみ/第四十一代女帝)となる。
持統大王(じとうおおきみ/天皇・女帝)は、十五歳になった軽皇子(文武大王/もんむおおきみ)に皇位を譲位し、自らは初の太上天皇(上皇)になって七百二年(大宝二年)に没するまで孫の文武大王(もんむおおきみ/天皇・第四十二代)の政務を助けている。
女系ではあるが、元の皇統に復して後に繋がって行くのだ。
尚、持統大王(じとうおおきみ/天皇・女帝)は、大伴家持が個人的に編纂したとされる万葉集に作品が残る万葉歌人(まんようかじん)でもある。
【聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)】に続く。
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皇統と鵺の影人
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