孝謙天皇(こうけんてんのう/女帝)重祚・称徳天皇(しょうとくてんのう/女帝)
阿倍内親王(あべのないしんのう)は、奈良時代(ならじだい)の七百四十九年(天平勝宝元年)に父・聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)の譲位により天武系からの最後の天皇(てんのう)となる孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)として即位した。
しかし母・皇太后の光明(藤原光明子)の為に紫微中台を新設され、長官には皇太后の甥の藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)が任命され、皇太后を後盾にした従兄弟・藤原仲麻呂の勢力が急速に拡大する。
この藤原仲麻呂に反抗した橘奈良麻呂は討たれ、また天武天皇(てんむてんのう/第四十代)の孫である何人かの王(おう・おおきみ/皇族)が皇位を狙って挙兵したが、いずれも失敗に終わっている。
孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)は、阿倍内親王(あべのないしんのう)時代に立太子した為に結婚はできず、子もなかった。
七百五十八年(天平宝字二年)に、孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)は在位九年間で退位し、藤原仲麻呂が後見する大炊王(おおいのおう・おおいのおうきみ/皇族)が即位して淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)となる。
上皇になった孝謙上皇は、代替わりの改元(代始改元)を拒み舎人親王(とねりしんのう/淳仁の父)への尊号献上にも抵抗するが、最終的には母・光明皇太后の強い要請により実現するなど淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)との軋轢を繰り返した。
淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)の後見として権力を握った藤原仲麻呂は、中華帝国・唐の制度様式を真似た制度を導入し、半島の国・新羅の討伐を目論むなど横暴な権力を行使する。
孝謙上皇と淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)との軋轢が続く中、七百六十年(天平宝字四年)に光明皇太后が死去した為、孝謙上皇の権力が再浮上する。
しかし翌年に孝謙上皇は病に伏せ、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになり、それを批判した淳仁大王(じゅんにんおおきみ/第四十七代天皇)と対立する。
大王(おおきみ/天皇)や上皇(太上天皇)と実力者の重臣の間は、互いに必要とする時だけ成り立つ危うい関係である。
この対立が引き金となり、七百六十二年(天平宝字六年)に孝謙上皇は近江保良宮より平城京(へいじょうきょう)に帰還し、出家して尼になる。
孝謙上皇は尼僧姿で重臣の前に現れ、淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)から天皇としての権限を取り上げる為「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え。国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言する。
後ろ盾の光明皇太后を失い、淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)の権限を狭められた藤原仲麻呂は軍事力により孝謙上皇と弓削道鏡(ゆげのどうきょう)に対抗しようと挙兵(藤原仲麻呂の乱)を企てるも敗れ、孝謙上皇は淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)を追放する。
この孝謙上皇の、強気の振る舞いの裏で後押しをしていたのが野望を抱いた弓削道鏡(ゆげのどうきょう)で在った事は想像に難くない。
孝謙上皇は重祚(ちょうそ/再即位)し、称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)となって再即位し、即位後は弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を太政大臣禅師とするなど重用し、天皇位の譲位を目論む「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)御神託事件」を起こす。
大宰府の主神(かんづかさ)・中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡神社の託宣を報じる。
この御神託事件は弓削道鏡(ゆげのどうきょう)と中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が共謀して「でっち上げた」と見られ、和気清麻呂(わけのきよまろ)が勅使として宇佐八幡に送られたが、「この託宣は虚偽である」と御神託が下り復命された。
これに怒った太政大臣・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は和気清麻呂(わけのきよまろ)を因幡員外介(いなばのいんがいのげ)として左遷し、さらに称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)は清麻呂(きよまろ)を除名し大隅国(鹿児島県)へ配流する。
しかしこの宇佐八幡神社御神託事件の翌年、称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)は病につき僅か百日余りで崩御する。
女帝の為に生涯独身を通した称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)に子は無く、他に適当な天武天皇の子孫たる親王、王が無かったため、藤原永手や藤原百川の推挙によって天智天皇系の白壁王(光仁/第四十九代天皇)が即位し、太政大臣・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は失脚して下野国に配流された。
女帝に成る定めを負って生まれた称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)は、孤独の中で権力闘争の生涯を送り、只一度の心許す男が弓削道鏡(ゆげのどうきょう)だったのかも知れない。
この称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)以降は、江戸時代の明正天皇(めいしょうてんのう・第百九代女帝)に至るまで、実に八百五十余年間女帝が立てられる事はなかった。
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