藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の乱
奈良時代(ならじだい)の七百三十七年(天平九年)、疫病(天然痘)の流行によって父の藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)を含む藤原四兄弟が相次いで亡くなり、続いて舎人親王(とねりのしんのう)を初めとして多くの政府高官が死亡して議政官がほぼ全滅し、出仕出来る公卿は従三位・左大弁の橘諸兄(たちばなもろえ)と従三位大蔵卿・鈴鹿王(すずかのおう・皇族)のみとなった。
そこで政権体制を整える為、急遽この年に諸兄(もろえ)を次期大臣の資格を有する大納言に、鈴鹿王(すずかのおう・皇族)を知太政官事(太政大臣と同格で皇族である事のみが任用条件)に任命する。
翌年には、橘諸兄(たちばなのもろえ)は正三位・右大臣に任命されて一躍朝廷の中心的地位に出世する事になり、これ以降の国政は、事実上橘諸兄(たちばなのもろえ)が担当し、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)を補佐する事になる。
藤原氏の勢力は大きく後退し、代わって橘諸兄(たちばなのもろえ)が台頭して国政を担うようになった。
しかし聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が阿倍内親王に譲位して孝謙大王(こうけんおおきみ/第四十六代女帝)の時代に入ると、光明皇后(こうみょうこうごう)の後ろ盾で藤原仲麻呂(恵美押勝)の発言力が増して圧力が増して行く。
三年前に従五位下に進んでいた藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、仲麻呂は叔母にあたる光明皇后の信任が厚く、また皇太子阿倍内親王ともこの時は良好な関係にあったとされ、政権を担っていた藤原四家(ふじわらしけ)・藤原四兄弟が相次いで死去した四年後の七百四十一年に民部卿、更にその二年後には参議にと順調に昇任している。
七百四十九年(天平勝宝元年)聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が譲位して阿倍内親王が孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)として即位すると、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は大納言に昇進する。
次いで、光明皇后の為に設けられた紫微中台の令(長官)を兼ね、更に中務卿と中衛大将も兼ねるなど叔母・光明皇后と従兄妹・孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)の信任を背景に政権と軍権の両方を掌握した仲麻呂は、左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)と権勢を競うようになった。
お定まりの権力争いだが、この権力争いは七百五十六年(天平勝宝八年)に成ると、七百五十五年(天平勝宝七年)に「諸兄(もろえ)が朝廷を誹謗した」との密告があった。
諸兄(もろえ)は聖武上皇(しょうむじょうこう)の病気に際して「酒の席で不敬の言があった」と讒言され、橘諸兄(たちばなのもろえ)は辞職を申し出て以後隠居し、翌年には失意のうちに死去し争いは決着した。
聖武上皇(太上天皇)が崩御しこの頃、遺言により天武大王(てんむおおきみ)の孫・道祖王(ふなどおう)が立太子されたが、道祖王(ふなどおう)は喪中の不徳な行動が問題視されて廃太子される。
道祖王(ふなどおう)に代わって、藤原仲麻呂の早世した長男・真従の未亡人(粟田諸姉)を妃とする大炊王(おおいおう・後の淳仁天皇/じゅんにんてんのう)が立太子され、仲麻呂は紫微内相(大臣に准じる)に進む。
橘諸兄(たちばなのもろえ)の死後、同年に息子・橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が謀反(橘奈良麻呂の乱)を起こし獄死している。
孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)は、阿倍内親王(あべのないしんのう)時代に立太子した為に結婚はできず、子も無かった。
七百五十八年(天平宝字二年)に、孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)は在位九年間で退位し、藤原仲麻呂が後見する大炊王(おおいのおう・おおいのおうきみ/皇族)が即位して淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)となる。
上皇になった孝謙上皇は、代替わりの改元(代始改元)を拒み舎人親王(とねりしんのう/淳仁の父)への尊号献上にも抵抗するが、最終的には光明皇太后の強い要請により実現するなど淳仁大王(じゅんにんおおきみ/天皇)との軋轢を繰り返した。
淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)の後見として権力を握った藤原仲麻呂は、中華帝国・唐の制度様式を真似た制度を導入し、半島の国・新羅の討伐を目論むなど横暴な権力を行使する。
孝謙上皇と淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)との軋轢が続く中、七百六十年(天平宝字四年)に光明皇太后が死去した為、孝謙上皇の権力が再浮上する。
しかし翌年に孝謙上皇は病に伏せ、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになり、それを批判した淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)と対立する。
大王(おおきみ/天皇)や上皇(太上天皇)と実力者の重臣の間は、互いに必要とする時だけ成り立つ危うい関係である。
この対立が引き金となり、七百六十二年(天平宝字六年)に孝謙上皇は平城京に帰還し、出家して尼になる。
孝謙上皇は尼僧姿で重臣の前に現れ、淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)から天皇としての権限を取り上げる為「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え。国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言する。
孝謙上皇(こうけんじょうこう)・弓削道鏡と淳仁天皇・藤原仲麻呂との対立は深まり、危機感を抱いた仲麻呂は七百六十四年(天平宝字八年)に都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じ、更成る軍事力の掌握を企てる。
だが、藤原仲麻呂謀反との密告もあり淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)の保持する御璽・駅鈴を奪われるなど孝謙上皇に先手を打たれて、仲麻呂は平城京を脱出する。
藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、子・藤原辛加知(ふじわらのしかち)が国司を勤める越前国に入り再起を図るが官軍に阻まれて失敗し敗走する。
敗走した仲麻呂は、近江国高島郡の三尾で最後の抵抗をするが官軍に攻められて敗北、敗れた仲麻呂は妻子と琵琶湖に舟を出して逃れようとするが官兵・石村石楯(いわむらのいわたて)に捕らえられて斬首された。
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