橘諸兄(たちばなのもろえ)の乱
橘諸兄(たちばなのもろえ)が国政の担当を始めたその頃、旧勢力である藤原氏の一人藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が、諸兄(もろえ)が登用した吉備真備(きびのまきび)や玄昉僧正(げんぼうそうじょう)の罷免を名目に九州大宰府で反乱を起こしている。
これを諸兄(もろえ)は大野東人(おおののあずまびと)を大将軍とする朝廷軍に鎮圧させ、この時は実力者の地位を保っている。
しかし聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が阿倍内親王に譲位して孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)の時代に入ると、光明皇后(こうみょうこうごう)の後ろ盾で藤原仲麻呂(恵美押勝)の発言力が増して圧力が増して行く。
三年前に従五位下に進んでいた藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、叔母にあたる光明皇后の信任が厚く、また皇太子・阿倍内親王ともこの時は良好な関係にあったとされ、藤原四兄弟が相次いで死去した四年後の奈良時代(ならじだい)の七百四十一年に民部卿、更にその二年後には参議にと順調に昇任している。
七百四十九年(天平勝宝元年)聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が譲位して阿倍内親王が孝謙大王(こうけんおおきみ/第四十六代女帝)として即位すると、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は大納言に昇進する。
次いで、光明皇后の為に設けられた紫微中台の令(長官)を兼ね、更に中務卿と中衛大将も兼ねるなど叔母・光明皇后と従兄妹・孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)の信任を背景に政権と軍権の両方を掌握した仲麻呂は、左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)と権勢を競うようになった。
お定まりの権力争いだが、この権力争いは七百五十六年(天平勝宝八年)に成ると、七百五十五年(天平勝宝七年)に「諸兄(もろえ)が朝廷を誹謗した」との密告があった。
諸兄(もろえ)は聖武上皇(しょうむじょうこう)の病気に際して「酒の席で不敬の言があった」と讒言され、橘諸兄(たちばなのもろえ)は辞職を申し出て以後隠居し、翌年には失意のうちに死去し争いは決着した。
つまりこの政権抗争は大きな武力行使には到らず、「乱」と言うよりは変事であるが、政治が混乱した点で「橘諸兄(たちばなのもろえ)の乱」と呼ばれたのかも知れない。
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