吉備真備(きびのまきび)
真備(まきび)は、吉備地方で有力な地方豪族吉備氏の一族として備中国・下道郡(後の岡山県吉備郡真備町、現在の倉敷市真備町)に下道氏を名乗る右衛士少尉(うえじふしょうい)・下道圀勝(しもつみちのくにかつ)の子として生まれ下道真備(しもつみちのまきび)を名乗る。
奈良時代(ならじだい)の七百十六年、下道真備(しもつみちのまきび)は二十二歳の時に遣唐使の遣唐留学生となり、翌年の七百十七年(養老元年)に入唐した。
唐では儒学のほか、天文学や音楽、兵学などを学び、下道真備(しもつみちのまきび)の在唐は十八年に及び、約二十年後の次に遣って来た七三五年(天平七年)の遣唐使に随い帰国する。
帰路で下道真備(しもつみちのまきび)は種子島に漂着するが、七百三十五年(天平七年)の帰朝時に多くの典籍を携えて帰国した。
帰朝後、真備(まきび)は聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)や光明皇后(こうみょうこうごう/藤原光明子)の寵愛を得て七百三十七年(天平九年)に従五位に列せられ、翌七百三十八年(天平十年)に橘諸兄(たちばなのもろえ)が右大臣に任ぜられて政権を握ると、同時に帰国した僧・玄昉(げんぼう)とともに重用され、真備(まきび)は右衛士督(うえじとく)の役職を兼ねた。
七百四十年には、真備(まきび)と玄昉僧上(げんぼうそうじょう)を除く事を名目に大宰府で藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ/藤原式家・藤原宇合の長男)が反乱を起こしている。
下道真備(しもつみちのまきび)は、七百四十一年に東宮学士として皇太子・阿倍内親王(後の孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)に「漢書」や「礼記」を教授した。
真備(まきび)が、初入唐した翌年の七百十八年(養老二年)に誕生した阿倍内親王(後の孝謙大王・称徳大王)とは二十一歳の年齢差があり、この阿倍内親王への教授の時既に下道真備(しもつみちのまきび)は四十七歳に成っていた。
その二年後の七百四十三年(天平十五年)には、真備(まきび)は従四位下・春宮大夫兼皇太子学士、七百四十六年(天平十八年)には吉備朝臣(きびのあそみ)の姓を賜り、翌七百四十七年に右京大夫に転じて、吉備真備(きびのまきび)は七百四十九年(天平勝宝元年)には従四位上に昇った時には五十五歳になっていた。
孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)即位後の七百五十年には、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が専権し、孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)派の真備(まきび)は、筑前守、肥前守に左遷されたが七百五十一年、五十七歳の時に遣唐副使となり翌年には再び入唐し、その唐の地で留学中の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ/唐で科挙に合格・唐朝諸官を歴任して高官に登った)と再会する。
再入唐から一年後の七百五十三年には、吉備真備(きびのまきび)は帰路で屋久島に漂着するが、鑑真(がんじん/鑑真和上)を伴って無事に帰国している。
七百五十四年(天平勝宝六年)に、真備(まきび)は大宰少弐に昇任、七百五十六年に新羅(しらぎ/シルラ)に対する防衛のため筑前に怡土城を築き、七百五十八年に大宰府で唐帝国での安禄山の乱に備えるよう勅を受け、翌七百五十九年(天平宝字三年)に大宰大弐(大宰府の次官)に昇任した。
その後、七百六十四年(天平宝字八年)に吉備真備(きびのまきび)は造東大寺長官に任ぜられ東大寺造営に取り掛かるが、大宰府拠り帰京した時には七十歳になっていた。
その年、藤原仲麻呂(恵美押勝)が反乱を起こした際には、吉備真備(きびのまきび)は従三位に昇叙され、中衛大将として追討軍を指揮して乱鎮圧に功を挙げ、翌七百六十五年には勲二等を授けられた。
吉備真備(きびのまきび)は、淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)を追放した称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)の引きで中央に返り咲く。
七百六十六年(天平神護二年)、称徳天皇(しょうとくてんのう/孝謙天皇の重祚)と法王に就任した弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の下で真備(まきび)は中納言となり、藤原真楯の薨逝で大納言となった後、右大臣に昇進して左大臣の藤原永手(ふじわらの ながて・藤原房前の次男)とともに政治を執った。
七百七十年(宝亀元年)、称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)が崩じた際には女官・吉備由利(真備とは兄妹)を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(光仁天皇/第四十九代)の立太子を実現した。
光仁天皇(こうにんてんのう/第四十九代)の即位後、吉備真備(きびのまきび)は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇(こうにんてんのう/第四十九代)は兼職の中衛大将のみの解任を許し右大臣の職は慰留した。
七百七十一年に、真備(まきび)は再び辞職を願い出て許されたが以後の生活については何も伝わっておらず、七百七十五年(宝亀六年)に八十一歳の長寿を全うした。
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