元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡・(一)計画露顕
六年後の千三百三十一年、後醍醐天皇は再び元弘の乱(げんこうのらん)を引き起こす。
元弘の乱(げんこうのらん)は、千三百三十一年(元弘元年)に起きた後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動である。
この乱は、千三百三十三年(元弘三年・正慶二年)に鎌倉幕府が滅亡に到るまでの一連の戦乱を含め元弘の乱(げんこうのらん)とする事も多いが、その発端が「正中の変」の後、処分を免れた側近の日野俊基(ひのとしもと)や真言密教の僧・文観らと再び倒幕計画を進めた後醍醐帝の再度の倒幕計画だった。
再び討幕を企てた後醍醐天皇で在ったが、またも密告に拠って露顕してしまう。
後醍醐帝の側近である吉田定房が帝を案ずる余り六波羅探題に倒幕計画を密告して倒幕計画はまたも事前に発覚、六波羅探題は軍勢を御所の中にまで送り込んだ為に後醍醐帝は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて山城国笠置山へ向かい、そこで挙兵した。
後醍醐天皇が勘解由小路党の内密の本拠地、笠置山(城)に移り挙兵すると、後醍醐帝の挙兵に呼応して、後醍醐帝の皇子・護良親王(もりながしんのう)の吉野山・金峯山寺蜂起や難波・河内国の悪党・楠木正成(くすのきまさしげ)が南河内の下赤坂城で挙兵する。
楠木正成は文観の真言立川の「教義」を支持し、後醍醐天皇を奉じて、鎌倉幕府の倒幕を試みたのである。
後醍醐帝・笠置山(城)挙兵の知らせは、急ぎ幕府方に伝わった。
六波羅探題軍が京の御所を急襲して、計画に加担した者は皆逃げる間もなく捕縛される。
この時「正中の変」で捕らえられていた日野資朝(ひのすけとも)は佐渡国、日野俊基は鎌倉にてそれぞれ幕府方に殺されている。
後醍醐天皇が笠置山に逃亡した為、鎌倉幕府執権・北条高時は持明院統・後伏見天皇の第三皇子の量仁(かずひと)親王を光厳(こうげん)天皇(北朝初代)として擁立させた。
【元弘の乱と鎌倉幕府滅亡・(二)笠置(かさぎ)山】に続く。
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