元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡・(三)隠岐流配
元弘元年(千三百三十一年)に勃発した元弘の変の炎が、まだチロチロと種火に成って燃えていた。
二度目の倒幕計画、笠置(かさぎ)山挙兵に失敗して捕らえられた後、醍醐天皇は隠岐(おき)の島へ流される。
後醍醐天皇の隠岐流配を追跡し、院庄で有名な十字の詩を桜の幹に刻んだ児島高徳(備前国の武士)は、熊野の山伏達が開いた熊野修験分流「児島修験」の人物で、戦前は小学校の唱歌にも歌われている。
隠岐に流された後醍醐天皇が密書を送った出雲の鰐渕寺(がくえんじ)も天台修験の古刹である。
一方、千三百三十二年に「隠岐(おき)の島」に流された後醍醐天皇の流刑中に、息子(第一皇子)の天台宗座主(ざす)尊雲法親王(護良親王)が還俗し、大塔宮(おおとうのみや)として臣民の支持を一身に集めていた。
潜伏して再挙兵の機会を伺っていた護良親王(もりながしんのう)と楠木正成(くすのきまさしげ)だったが、まず楠木正成が河内国金剛山の千早城で挙兵し、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発した。
楠木正成は赤坂城を奪回し、鎌倉方六波羅勢を摂津国天王寺などで撃破する。
鎌倉幕府は再び鎮圧に乗り出して大仏家時、名越宗教、大仏高直らが率いる大軍を差し向ける。
幕府方は楠木正成配下の平野将監らが守る上赤坂城を攻め、苦戦するも上赤坂城の城の水源を絶ち平野将監らを降伏させる事に成功、吉野でも護良親王を破って敗走させている。
次いで幕府方は楠木正成の篭る千早城の攻略に掛かるが、三ヵ月に渡って正成に翻弄されている間に幕府方の武力権威が落ちて各地に倒幕の機運が広がって行く。
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