元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡(四)・倒幕成功
播磨国で赤松則村(のりむら/円心)が挙兵し各地で反乱が起きた頃、後醍醐天皇は時来たりと名和長年の働きで隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した。
幕府方は船上山の後醍醐帝を討つ為に足利高氏(あしかがたかうじ/尊氏)、名越高家らの援兵を送り込むが名越高家が赤松則村(のりむら/円心)に討たれ、足利高氏は丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻し、呼応して六波羅探題を攻め落として京都を制圧する。
敗れた北条仲時、北条時益ら六波羅探題の一族郎党は東国へ逃れようとするが、近江国の番場蓮華寺で自刃している。
坂東(関東)では、足利高氏(あしかがたかうじ/尊氏)の挙兵と時を同じくして新田義貞(にったよしさだ)が挙兵する。
隠岐(おき)の島に流されていた後醍醐天皇が船上山で再起し、帝方と幕府方が五分五分の形勢になりそうな所で坂東(関東)に於いて新田氏棟梁・新田義貞(にったよしさだ)が野国・生品明神で倒幕の旗を揚げる。
挙兵した新田軍は一族や周辺御家人を集めて兵を増やし、足利高氏の嫡子・千寿王(後の足利義詮)らも合流して相模国に達する頃の新田軍は数万規模に膨れ上がった。
新田軍の進撃に、幕府は北条泰家らの軍勢を迎撃の為に向かわせるが、「小手指ヶ原の戦い」や「分倍河原の戦い」でことごとく敗退し、幕府軍(鎌倉勢)は鎌倉へ追い詰められて行く。
鎌倉に入るには狭い七切通し小道しか無く、天然の要塞と成っていた。
幕府軍(鎌倉勢)はその七切通しを封鎖するも、新田軍は極楽寺坂、巨福呂坂、化粧坂と言う三方の切通し小道から攻め入って行きてこずって撤退する。
守りの固い鎌倉に手を焼いた新田義貞は、幕府軍(鎌倉勢)の裏をかいて引き潮の七里ヶ浜の浜伝いに稲村ガ崎から鎌倉へ突入、背後を突かれ幕府軍は総崩れとなり北条高時ら北条一門は応戦するも力尽き、北条氏の菩提寺・東勝寺に於いて滅亡する。
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