歴代朝鮮王朝略史(二)
やがて朝鮮朝鮮半島から日本列島の西側にかけて広く広がっていた倭人の国々の内、半島側の倭人(倭の国々)は百済(ペクチェ)、新羅(シルラ)、高句麗(コグリョ)の鼎立割拠する三国(サムグ)時代を経て新羅(シルラ)に統一される。
当時の中華帝国の側の認識では、統一された半島側の新羅(シルラ)は「属国としての王国」と認めていたが、列島側はまだ倭人(倭の国々)が残っている状態と認識し、「倭」と呼び続け文書(もんじよ)にもそう記した。
朝鮮半島側に新羅(シルラ)統一王朝が成立した為、大陸の中華帝国は半島を新羅(シルラ)と呼び、残りの日本列島を倭国(わのくに)として呼称を残した為に、日本列島・大和朝廷を「倭国(わのくに)と認識した」と考えられるのである。
その中華帝国の側の認識を、倭人である筈(はず)の朝鮮半島側の新羅(シルラ)王朝をも採用し、列島側だけが、隣国から「倭人(倭の国)」と呼ばれるように成って行く。
この時点で、中華帝国(ツォンファティゴウ)側が列島の民を倭人(倭の国々)と呼び続けた裏には、「倭人は蛮族」と言う中華思想が根底にあり、征服部族として列島に渡って来た倭人が、列島原住部族を「蝦夷(エミシ)」と呼んだと同じ意識が存在する。
そして本来倭人だった半島側の新羅(シルラ)は、任那(加羅/加那)・百済(ペクチェ)を滅ぼして統一国家を成立した事を期に、自分達が列島側の人々に優越する為に、あえて列島側の呼称を「倭」と残した。
朝鮮半島側の人々の立場からすると、早く中華皇帝の国から文明国人と認められたい。
裏返すと、日本列島の民を「倭奴(ウエーノム・韓国語/ハングル)」と一段挌下に位置付ける事で、自らが「倭人」からの脱却を目指した事になる。
この事が、日本列島側の意識の中に「中華帝国からの脱却意識」を芽生えさせ、大和朝廷は独自の皇帝(大王・おおきみ/後に天皇)をその中心に据え、中華王朝との対等国家を標榜した。
唯一同様の立場に置かれていた琉球王朝(沖縄)だけはこの経緯を認識していたから、倭人とは呼ばず大和人(ヤマトンチュー)と呼んでいた。
だとするなら、「倭国は日本国の古代名である。」は間違いである。
正確には、在る一定の時期から主として他国が日本列島・大和国を「勝手にそう呼ぶように成った。」が正しい事に成る。
広域倭の国論が正解であれば、当然ながら初期大和朝廷の大王(おおきみ)の故郷が朝鮮半島で在っても不思議は無いので、これを否定する輩は「皇国史観」と呼ばれる創られた歴史(天孫降臨伝説)を未だに引きずっている事に成る。
この大いなる間違いは、恐らく政治的理由で多民族混合国家の過去を消して単一民族国家として国民の民族意識と愛国心を喚起する為に、思惑として肯定しざるを得無かったからである。
【歴代朝鮮王朝略史(三)】に続く。
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