歴代朝鮮王朝略史(四)
高麗王朝(コリョワンジョ)を開いた松岳(開城)の豪族・王(ワン)氏、高麗朝(コリョワンチョウ)の王建(ワンゴン・太祖<テジョ>)は、新羅末期の群雄の一人で後高句麗を建国した弓裔(クンイェ)の部下であったが、弓裔(クンイェ)の暴政にあきれた仲間に推されるようにして弓蕎(クンイェ・泰封国王)を倒した。
その後、九百三十四年に後百済、九三五年に新羅敬順王が降伏、統一高麗王朝(コリョワンジョ)が成立する。
千二百五十九年になるとチンギスハン率いるモンゴル(蒙古・後の元)が台頭し、高麗王朝(コリョワンジョ)は元(げん・ユエン)帝国の属国化するに至る。
その後起こった朝鮮半島と日本列島の間の出来事は、もう「倭の国同士のうちわ(内戦)」の感覚ではなく、他国、他人種の侵略と受け取られるほど、互いに違いが出来てしまっていた。
朝鮮半島は、「元(げん・ユエン)」の属国と成りながらも、「高麗(コリョ)」が四百七十年ほど続いた。
その間、日本の鎌倉時代、「元」の手先として、数次に亘る元寇の侵略軍の大半は、動員された「高麗((コリョ)」の人々であった。
鎌倉後期、執権北条時宗(第八代)の時代「元寇」として日本に襲来したのは、実は「元」に命じられた半島(当時・高麗王朝・コリョワンジョ)の民だった。
この時は、二度(文永・弘安の役)の襲来の度に「神風(台風)」が吹いた。
海が暴風に荒れ狂い、「元」の海軍(実は半島・高麗王朝・コリョワンジョの海軍)は大打撃を受けて撤退した。
内陸の国「元(げん・ユエン・モンコル)」には、本来海軍はない。
動員されたのは高麗王朝(コリョワンジョ)の海軍と兵である。
厳密に言うと、第二次襲来の「弘安の役」の後続(増援)部隊は、属国にされた南宋国(呉族系・中国人)の海軍だが、これが到着した時には対馬海峡(玄海灘)の海はもう荒れ狂っていた。
南宋の船団は、戦う事なく被害を出し、撤退している。
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