菅原道真(すがわらのみちざね)
道真(みちざね)の祖父・菅原清公(すがわらのきよきみ)と父・菅原是善(すがわらのこれよし)はともに大学頭・文章博士に任ぜられ侍読も務めた学者の家系であり、当時は中流の貴族であった。
父・菅原是善(すがわらのこれよし)は祖父・菅原清公(すがわらのきよきみ)の四男で、菅原道真(すがわらのみちざね)は父・是善(これよし)の三男だった。
八百七十七年(元慶元年)、菅原道真(すがわらのみちざね)は式部少輔に任ぜられ、同年家の職である文章博士を兼任する。
つまり道真(みちざね)は、菅原氏(すがわらうじ)の系図に於いても嫡流外に生まれ、当初は家の格に応じた職に着いていた。
二年後の八百七十九年(元慶三年)、道真(みちざね)は従五位上に叙せられ、七年後の八百八十六年(仁和二年)讃岐守を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し任国・讃岐へ下向、四年後任地讃岐国より帰京している。
その道真(みちざね)の才に目を着けた宇多天皇(うだてんのう/五十九代)が、皇統の外戚として権勢を振るいつつ在った藤原氏を牽制する意図も在って登用する。
道真(みちざね)にとって幸運だったか不幸だったかは定かではないが、宇多天皇(うだてんのう)に藤原北家の権勢を牽制する思惑が無かりせば、如何に優秀な道真(みちざね)で在ってもそこまでの栄達は望めなかったかも知れない。
登用された道真(みちざね)は宇多天皇(うだてんのう)の信任を受け、以後要職を歴任する事になる。
道真(みちざね)は、八百九十一年(寛平三年)蔵人頭に補任され、ついで式部少輔と左中弁を兼務し、翌年、従四位下に叙せられ左京大夫を兼任、さらに翌年には参議式部大輔に補任され、左大弁・勘解由長官・春宮亮を兼任され出世の階段を一気に登って行く。
八百九十四年(寛平六年)、道真(みちざね)は遣唐大使に任ぜられるが、道真の建議により遣唐使は停止され、翌八百九十五年(寛平七年)には従三位権中納言に叙任、春宮権大夫を兼任して道真の長女・衍子(えんし)を宇多天皇の女御とし、翌(寛平八年)には民部卿、八百九十九年(寛平九年)には宇多天皇(うだてんのう)の子・斉世親王(ときよしんのう)の妻に娘を嫁している。
八百九十九年(寛平九年)、宇多天皇(うだてんのう)は道真(みちざね)を引き続き重用するよう強く求めた後に醍醐天皇(だいごてんのう)に譲位し、藤原時平(ふじわらのときひら)と道真にのみ官奏執奏の特権を許した。
菅原道真(すがわらのみちざね)は、正三位・権大納言に叙任し、右近衛大将・中宮大夫を兼任する。
醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真(みちざね)の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反発が表面化するようになった。
何時の世も、既得権に胡坐をかく者は改革に抵抗する。
中下級貴族の中にも、道真の進める政治改革に不安を感じて家格に応じたそれなりの生活の維持を望み、この有力貴族の反発の動きに同調する者がいた。
八百九十九年(昌泰二年)、菅原道真(すがわらのみちざね)は右大臣に昇進し右大将を兼任、二年後の九百一年(延喜元年)従二位に叙せられたが、道真(みちざね)が醍醐天皇から皇位の簒奪を謀り「娘婿・斉世親王(ときよしんのう)を皇位に就けようとした」と誣告(ぶこく/罪無き虚偽の申告)される。
醍醐天皇(だいごてんのう)がこれを信じた為、道真(みちざね)は罪を得て大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷され、九州大宰府に落とされる。
この左遷を聞いた宇多上皇(うだじょうこう/法皇)は醍醐天皇(だいごてんのう)に面会してとりなそうとしたが醍醐天皇は面会せず、道真(みちざね)長男・高視を初め、子供四人が流刑に処されている。
元々権力者ほどその権力を失う事に最大の恐れを抱くから常に周囲には懐疑的であり、そしてその恐れは身近の実力者に及ぶ。
例え冤罪(えんざい/ぬれぎぬ)でも、一度誣告(ぶこく/罪無き虚偽の申告)されると、日本の古典的な法的取調べ処置は永い事「証人の証言の採用」と「拷問自白型」だったから、悪意の証言を採用してしまうケースも多かった。
しかしその身近の実力者も五十歩百歩で、気を緩めると「天皇の首のすげ替え」さえも画策する。
重臣に力を持たれてしまうと例え天皇でもどうにもならず、つまりいつの世も素直に天皇の権威を認めていたのは下々の者だけで、日本の永い皇統の歴史は天皇の権威を利用する為だけの時の実力者に翻弄され続けた歴史でもある。
この事件の背景については、藤原時平(ふじわらのときひら)による「全くの讒言」とする説から宇多上皇(うだじょうこう/法皇)と醍醐天皇(だいごてんのう)の対立に道真(みちざね)が「巻き込まれた」とする説まで諸説ある。
現在は学問の神として親しまれる菅原道真(すがわらのみちざね)は、平安期に学者高級官僚として宇多天皇に重用され昇進し、醍醐朝では右大臣にまで昇ったが、左大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)に讒訴され、大宰府へ権帥として左遷され現地で没した。
菅原道真(すがわらのみちざね)の左遷任地での没後、天変地異が多発した事から、「朝廷に祟りを為した」とされ、天満天神として信仰の対象となる。
菅原道真(すがわらのみちざね)は左遷の地・九州大宰府で薨去して同地に葬られ、後に太宰府天満宮として祀られている。
道真(みちざね)が都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」は有名である。
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