日野俊基(ひのとしもと)
中納言・藤原公国(ふじわらのきみくに)の三男・藤原実光(ふじわらのさねみつ)の子・藤原資憲(ふじわらのすけのり)から五代・藤原種範(ふじわらのたねのり)が、日野種範(ひのたねのり)を称して藤原北家・日野流とした。
種範流日野氏は、息子の日野俊基(ひのとしもと)が後醍醐天皇の影響で宋学に傾倒し、鎌倉幕府倒幕謀議に加わって元弘の乱(げんこうのらん)の早い時期に捉えられ、鎌倉の葛原岡で処刑された為に日野種範(ひのたねのり)の系統は衰退した。
後醍醐帝の鎌倉幕府倒幕謀議には、側近殿上人(てんじょうびと/うえびと)・堂上家(どうじょうけ)の蔵人(くろうど/身の回り係り)を主力に参画(さんかく)を許され、日野資朝(ひのすけとも)、日野俊基(ひのとしもと)、藤原隆資(ふじわらのたかすけ)、藤原師賢(ふじわらのもろかた)、平成輔(たいらのなりすけ)など極少数が参加した。
鎌倉時代末期の公家・日野俊基(ひのとしもと)は、蔵人(くらんど/身の回り係り)として後醍醐天皇の親政計画の謀議に参加し、諸国を巡り反幕府勢力を募る役目を負う。
その動きが幕府方六波羅探題に察知され、千三百二十四年(正中元年)の正中の変で日野資朝(ひののすけとも)らと逮捕されるが処罰は逃れ京都へ戻る。
しかし後醍醐帝の倒幕の意志は固く、俊基(としもと)も再び討幕謀議に参加し、千三百三十一年(元徳三年/元弘元年)に二度目の謀議発覚をし、捉えられ鎌倉の葛原岡で刑死する。
種範流日野氏は、明治維新後に南朝(吉野朝廷)が正統とされると、日野俊基(ひのとしもと)は倒幕の功労者として評価され、千八百八十七年(明治年二十)には俊基(としもと)を主祭神とする葛原岡神社が神奈川県鎌倉市梶原に創建され、俊基(としもと)自身にも従三位が追贈された。
詳細は【元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡】に飛ぶ。
参考リスト【正中(しょうちゅう)の変から室町幕府成立までの主な登場人物と主な出来事】<=クリックがお薦めです。
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