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藤原道長(ふじわらのみちなが)(二)

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藤原道長(ふじわらのみちなが)は兄・道隆(みちたか)の嫡子・伊周(これちか)との政争に勝って、漸く左大臣として政権を掌握する。

政権を掌握した道長(みちなが)は一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)と為すが、先立の后に定子が居り既に第一皇子・敦康親王らを生み帝の寵も非常に深かったが、道長は定子を皇后宮と号する事で前例が無い一帝二后を強行した。

入内後十年目にして彰子(道長長女)は土御門殿に於いて皇子・敦成親王(あつなりしんのう/のちの後一条天皇)を出産し、翌年にはさらに年子の敦良親王(あつながしんのう/後朱雀天皇)も生まれて道長(みちなが)待望の孫皇子が誕生した。

千十一年(寛弘八年)、病床に臥した一条天皇は冷泉天皇(六十三代)の皇子・東宮・居貞親王(おきさだしんのう /六十七代・三条天皇)に譲位し、剃髪出家した後に崩御する。

実は東宮・居貞親王(おきさだしんのう / いやさだ)は、一条天皇より四歳年上で二十五年と言う長い東宮時代を経て、三十六歳で漸く一条帝の譲りを受けて即位した。

三条天皇(六十七代)は次の東宮(皇太子)に、一条天皇と彰子(道長長女)の間に生まれたまだ四歳の敦成親王(あつなりしんのう)を立て、先帝・一条の践祚(せんそ)に報いている。

道長(みちなが)は、東宮時代の三条天皇に次女・妍子(けんし/きよこ)を入内させていたが、これを三条帝即位翌年に皇后(号は中宮)とした。

三条天皇は道長(みちなが)に関白就任を依頼するが道長はこれを断り、続けて内覧に留任する。

道長(みちなが)は三条天皇とも叔父・甥の関係にあったが、早くに母后・超子を失い成人してから即位した三条天皇と道長の連帯意識は薄く、妍子(けんし/きよこ)が禎子内親王を生んだ事もあり三条天皇は親政を望んだ為に道長(みちなが)と天皇との関係は次第に悪化して行った。

三条天皇には妍子とは別に東宮時代からの女御・Z子(せいし/藤原済時の娘)が第一皇子・敦明親王始め多くの皇子女を生んでおり、三条帝はZ子(せいし)も皇后(号は皇后宮)に立てようとした。

ところがZ子(せいし)の立后儀式の日に道長(みちなが)は妍子(けんし/きよこ)の参内の日として欠席し、諸公卿もこれにおもねって誰も儀式に参列しようとしない事態となった。

その為に、意を決した右大臣・藤原実資(ふじわらのさねすけ)が病身を押して中納言・隆家とともに参内し儀式を取り仕切ったが、寂しい儀式となった。

翌年のZ子(せいし)参内の行賞としてZ子(せいし)の兄の藤原通任を叙任しようとした際に、道長(みちなが)は本来は長年に渡り子(せいし)の後見をしたのは「長兄の藤原為任(ふじわらのためとう)である」として通任を叙位しようとした天皇の姿勢を批判し、最終的に為任を昇進させた。

三条天皇と道長(みちなが)との確執から政務は渋滞し、三条帝は密かに実資(さねすけ)を頼りとして対抗を試みるが、筋を通す実資(さねすけ)も流石に権勢家の道長と正面から対抗できず大勢は道長に有利であった。

千十四年(長和三年)、孤立した三条天皇は失明寸前の眼病に罹り、いよいよ政務に支障が出た事を理由に道長(みちなが)はしばしば譲位を迫る。

外孫の早期即位を図る道長(みちなが)が敦成親王(あつなりしんのう)の即位だけでなく同じ彰子の生んだ敦良親王(あつながしんのう)の東宮までも望んでいるのは明らかで、三条天皇は道長を憎み譲位要求に抵抗し眼病快癒を願い、しきりに諸寺社に加持祈祷を命じた。

しかし道長(みちなが)は、皇統に巣食う鵺(ぬえ)と化して己の野望の為に三条帝を追い詰めて行く。

翌千十五年(長和四年)譲位の圧力に対して天皇は道長に准摂政を宣下して除目を委任し、自らは与らぬ事を詔(みことのり)するが、その翌月に不吉にも新造間もない内裏が炎上する事件が起こる。

この火災を理由に、道長(みちなが)はさらに強く譲位を迫り眼病も全く治らず三条天皇は遂に屈し、自らの第一皇子・敦明親王(あつあきらしんのう)を東宮(次期帝)とする事を条件に敦成親王(あつなりしんのう)への譲位を認めた。

千十六年(長和五年)、終(つ)いに三条天皇は譲位し、東宮・敦成親王(あつなりしんのう)が後一条天皇として即位し、東宮には約束通り、敦明親王(あつあきらしんのう)が立てられる。

道長(みちなが)は摂政の宣下を受け、僅か在位六年で退位した三条上皇は出家して法皇となるも、程なく四十二歳で恨みを残しながら没した。

その長子・敦明親王(あつあきらしんのう)は父の父の不遇な生涯をまざまざと見ていた。

三条法皇の死後、敦明親王(あつあきらしんのう)は道長(みちなが)に無言の圧迫を掛けられ、道長(みちなが)の権勢に恐れを抱いて終(つ)いに自ら東宮を辞退する挙に出る。

道長(みちなが)はそれを喜び、娘の寛子を敦明親王(あつあきらしんのう)嫁させ、さらに親王を准太上天皇として優遇し、冷泉・円融両系の両統迭立に漸く終止符が打たれ、皇位は永く円融天皇の直系に帰す事になった。

藤原道長(ふじわらのみちなが)は従一位太政大臣に任じられ位人臣を極めるが、これは後一条天皇の元服で加冠の役を奉仕する為で、程なくこれを辞し摂政と氏長者を嫡男・頼通に譲り後継体制を固めた。

道長(みちなが)は一応政治から退いた形になるが、その後も摂政となった若い頼通を後見して指図している。

道長は藤原北家の全盛期を築き、摂関政治(せっかんせいじ)の崩壊後も彼の子孫のみが摂関職を代々世襲し、本流から五摂家と九清華のうち三家(花山院・大炊御門・醍醐)を輩出した。

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by mmcjiyodan | 2010-04-12 02:09  

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