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紫式部(むらさきしきぶ)

清少納言(せいしょうなごん)と対峙するもう一方の平安時代中期の女性作家、歌人として「源氏物語」の作者と考えられている紫式部(むらさきしきぶ)は、藤原北家の出自で、越後守・藤原為時の娘で母は摂津守・藤原為信の女である。

通説では、幼少の頃より当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多く、54帖にわたる大作「源氏物語」、宮仕え中の日記「紫式部日記」を著したと伝えられている。

父・藤原為時(ふじわらためとき)は三十歳代に東宮・師貞親王(もろさだしんのう)の読書役を始めとして東宮が花山天皇になると蔵人、律令制における八省の一つ式部丞(しきぶしょう/現在の文部省に近い)の式部大丞(実質的な長官)と出世したが、花山天皇が出家すると失職していまう。

紫式部の式部は、父・藤原為時(ふじわらためとき)の官位・式部大丞(しきぶたいしょう)から採ったようである。

その藤原為時(ふじわらためとき)は不遇な日々を送っていたが、一条天皇に詩を奉じた結果、当時隣国の若狭に宋の商人が渡来して対中華貿易の窓口に成っていた為に漢文の才を持つ為時が選ばれ越前国の受領となり、紫式部は娘時代の約二年を父の任国(越前)で過ごす。

いずれにしても紫式部(むらさきしきぶ)は、清少納言(せいしょうなごん)と同様に国司クラスの貴族社会で暮らして居た女性である事は間違いがない。

九百九十八年(長徳四年)頃、紫式部は親子ほども年の差がある蔵人・山城守・藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結婚し一女・藤原賢子(ふじわらのかたいこ・けんし/大貳三位)を儲けたが、この結婚生活は長く続かず間もなく夫・宣孝(のぶたか)と死別した。

その後紫式部は、一条天皇の中宮(皇后)・定子の死去の後を継いだ中宮・彰子(藤原道長の長女、後・院号宣下して上東門院)に女房兼家庭教師役として仕え、少なくとも千十二年(寛弘八年)頃まで「仕え続けた」とされている。

実はこの紫式部、現在でも本名は不明で諸説あり、当時の受領階級の女性一般がそうであるように紫式部の生没年を明確な形で伝えた記録は存在しない。

その為に、紫式部の生没年についてはさまざまな状況を元に推測したさまざまな説が存在しており、婚姻関係も含めて定説が無い状態である。

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by mmcjiyodan | 2010-04-14 01:05  

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