平将門(たいらのまさかど)の乱・詳細その(一)
平安群盗鎮圧の為に鎮守府軍として坂東(関東)に派遣された原初の武士達(自衛武力)の中に桓武平氏流(かんむへいしりゅう)の平良将(たいらのよしまさ)が居た。
平良将(たいらのよしまさ)は下総国を本拠とした桓武平氏流の中心人物で、歴史的には村岡良文(むらおかよしふみ/平良文)とともに武家平氏の実質的な祖の一人と目されている。
桓武天皇(かんむてんのう)の皇子・葛原親王(かずらわらしんのう)の三男・高見王(たかみおう)の子・高望王(たかもちおう)が、宇多天皇(うだてんのう)の勅命により平朝臣(たいらのあそみ)を賜与され臣籍降下し平高望を名乗った。
この平高望(たいらのたかもち)が上総介(国司)に任じられて坂東(関東)に下向した時、三男の平良将(たいらのよしまさ)は、長男・国香、次男・良兼の兄達と伴に父・高望(たかもち)に同行している。
分家した平良将(たいらのよしまさ)は下総国に在って未墾地を開発して私営田を経営、更に鎮守府将軍を勤め家勢を目覚しく発展させる。
しかし平良将(たいらのよしまさ)には男子が無く、同じ関東鎮守府将軍・桓武平氏葛原(かずはら)親王流五代・村岡良文(むらおかよしふみ/平良文)の子を養子とし、平将門(たいらのまさかど)を名乗らせる。
この血統を異とする婿養子・平将門(たいらのまさかど)が、義理の伯父・平国香(たいらのくにか)の欲を誘発させたのかも知れない。
その義父・良将が亡くなって、将門が朝廷に相続の保証と官位を願い出て都にいる二年の間に、伯父の鎮守府将軍・平国香(たいらのくにか)に所領を全て奪われていた事から、この騒動は始まる。
広大な所領を有する平良将(たいらのよしまさ)が亡くなり、家督を継いだ養子の平将門は都に出向いて留守だった。
伯父の平国香(たいらのくにか)にして見れば、所領横領の絶好の機会が訪れた事になる。
この「戦は武士の本分」の原点は勝手に渡来して縄張りを広げて行った氏族の覇権主義に在ったもので、何も武士の本分は格好の良い物ではなく、切り取り強盗の親玉みたいな物である。
さながら坂東(関東)は、力有る者が無法に武力で勢力を拡大する西部開拓史時代のアメリカ西部劇を見るようではないか。
この時代、荘園(領地)経営は大事業で、自分達の虎の子だから開墾や土地の改良から始めて、慈(いつく)しんで育てるものだったから、「一所懸命」の原点で思い入れもひとしおだった。
平将門(たいらのまさかど)は、義父の残した所領を留守中に義理の伯父に横領されていた事になる。
都から帰郷した平将門も、領地を横領されていて驚いた。
所領を横領されれば、義父の代から臣従する一族や家臣団も路頭に迷う。
将門(まさかど)が留守の間、所領から追われて辛酸を舐め耐えて来た者共も多く、本来なら直ぐにでも戦を仕掛け父の所領を取り返すべき所である。
だが、当初相手が伯父の「国香」の事と我慢をし、「さも浅ましき者共よ。」と自重して独自に新田の開墾などしていた。
処が、伯父の平国香の方が後ろめたいから、将門に「何時攻められるか」と不安が募る。
甥・平将門の所領を横領した平国香(たいらのくにか)側からすれば、手に入れた筈の領地の一郭に独立した将門の開墾地が在るのは不安材料で、いつ何時(いつ)将門が力を着けて取り返しに出ないとも限らない。
まぁ、「災いの芽は、早くに摘んでしまおう」と言う発想だった。
結果、将門(まさかど)を倒して「不安を取り除こう」と、伯父の平国香(たいらのくにか)党が嵯峨源氏の源護(みなもとのまもる)と結託し、平将門に襲いかかる。
義理の仲ではあるが、「伯父・平国香(たいらのくにか)」対「甥・平将門(たいらのまさかど)」と言う肉親同士の領地の取り合いに成ったが、この時代さして違和感は無い。
新天地を求めて荒海を越えて来た征服部族である氏族の基本的な感性は、「戦い取る」と言う戦闘的な【左脳域】思考が強いDNAを持ち合わせている。
【左脳域】は、厄介な事に論理・理性の他に原始本能として「闘争本能(戦うか逃げるかの判断)」の部分を受け持っている。
しかも氏族は、長い事「支配地(所領)の取り合い」と言う現実的な世界で生まれ育って来ていた。
そうした環境下では、その権力に対する価値観が【左脳的】に最も重要で、親子・兄弟・叔父甥でさえも争う結果になる。
そもそも当時の氏族の価値観で言えば所領の拡大の最優先が正義で、争う相手が肉親もくそもない。
米国の西部開拓史でもそうだったが、開拓時代は土地と奴隷(日本の場合は俘囚・奴婢)の武力による取り合いが為されている。
開拓時代のお定まりで、日本の氏族(征服部族)も根本が好戦的な部族で、土地と奴婢(ぬひ)の取り合いである。
相手の甥・平将門が父親・平良将(たいらのよしまさ)を亡くし、しかも将門が都に出仕していて留守となれば、これは平国香にとって又と無い絶好の領地横領の好機(チャンス)だった。
この大番役(京都御所守護)などの朝廷出仕で所領を留守にして居る間に、身内に所領を乗っ取られる「大掛かりな空巣話し」は平将門の例に止まらずその後も多発している手口で、後に記述する伊東祐親(いとうすけちか)と工藤祐経(くどうすけつね)の「曽我兄弟の仇討ち」に発展したいざこざも有名であり、それらは無数に存在する。
平将門はこれを返り討ちにして国香を討ち取り、事の顛末を朝廷に報告、一族の私闘として罪を許される。
【平将門(たいらのまさかど)の乱・詳細その(二)】に続く。
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