比企尼(ひきのあま)
千百四十七年(久安三年)、清和天皇(せいわてんのう/五十六代)を祖とし河内国を本拠地とした源頼信(みなもとよりのぶ)、源頼義(みなもとよりよし)、源義家(みなもとよしいえ)らが河内源氏として東国に勢力を築いた。
その河内源氏の棟梁・源義朝(みなもとよしとも)は、公家で熱田神宮大宮司・藤原季範(ふじわらのすえのり)の娘の由良御前(ゆらごぜん)との間に三男が生まれ、幼名を鬼武者(おにむしゃ)と名付けられる。
鬼武者(おにむしゃ)は、武蔵国比企郡の代官で、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)・藤原北家・魚名流の流れを汲む一族である比企掃部允(ひきかもんのじょう)の妻・比企尼(ひきのあま)が乳母(うば)として育てていた。
比企尼(ひきのあま)が鬼武者(おにむしゃ)の乳母(うば)と成った経緯は不明だが、夫・比企掃部允(ひきかもんのじょう)が藤原秀郷流の下級貴族だった事から、北家と南家の違いはあるが熱田神宮大宮司・藤原家からの依頼だったのかも知れない。
清和源氏の棟梁・源義朝(みなもとよしとも)は保元の乱で平清盛と共に後白河天皇に従って勝利し、乱後は左馬頭(さまのかみ/馬寮の武官長)に任じられる。
保元の乱当時、鬼武者(おにむしゃ)と名付けられた義朝と由良御前との子は九歳だった。
やがて鬼武者(おにむしゃ)は元服して源頼朝(みなもとよりとも)を名乗り、三男で在りながら清和源氏の棟梁・源義朝(みなもとよしとも)の継嗣として官に登用され、宮廷武官の道を歩み始める。
平安末期の千百五十八年(保元三年)、頼朝十一歳の時には後白河天皇准母として皇后宮となった統子内親王(むねこないしんのう)に仕え皇后宮権少進(こうごうごんしょうじょう)、翌年(平治元年)には統子内親王が院号宣下を受け、女院上西門院となると上西門院蔵人(じょうさいもんいんくらんど)に補される。
所が、その年(千百五十九年)に平治の乱(へいじのらん)が勃発し、後白河院政派の主将として平治の乱に参戦した父・源義朝が敗死し、初陣で参戦して居た嫡男・頼朝は死罪に処せられる所を池禅尼(いけのぜんに)の助命嘆願で救われ、伊豆国に流罪となる。
「吾妻鏡」に拠ると、頼朝の乳母で在った比企尼(ひきのあま)は武蔵国比企郡の代官となった夫の掃部允(かもんのじょう)と共に京から領地へ下り、千百八十年(治承四年)の秋まで二十年間の永きに渡り伊豆国流人・頼朝に仕送りを続けた。
比企掃部允(ひきかもんのじょう)と比企尼(ひきのあま)の間には男子は無く娘が三人居た。
嫡女・丹後内侍(たんごのないし)は惟宗広言(これむねのひろこと)と密かに通じて「島津忠久(しまづ ただひさ)を産んだ(異説あり)」とされ、その後坂東(関東)へ下って安達盛長(あだちもりなが)に再嫁し、盛長は頼朝の流人時代からの側近となる。
次女・河越尼は武蔵国の有力豪族・河越重頼(かわごえよりしげ)の室となり、三女は伊豆国の有力豪族・伊東祐親(いとうすけちか)の嫡男・伊東祐清(いとうすけきよ)に嫁ぎ、死別した後・源氏門葉である平賀義信(ひらがよしのぶ)の室となっている。
比企尼(ひきのあま)は武蔵国比企郡の所領から頼朝に米を送り続け、三人の娘婿に頼朝への奉仕を命じていて長女・丹後内侍(たんごのないし)と次女・河越尼の娘はそれぞれ頼朝の実弟・源範頼(みなもとのりより)、異母弟・源義経(みなもとよしつね)に嫁いでいる。
夫の掃部允(かもんのじょう)は頼朝の旗揚げ前に死去したが男子に恵まれなかった為、比企氏の家督は甥の比企能員(ひきよしかず)を尼の猶子(養子)として迎える事で跡を継がせ、後に能員が頼朝の嫡男・頼家(よりいえ/二代将軍)の乳母父となって権勢を握ったのは、この比企尼(ひきのあま)の存在に於けるが大である。
比企尼(ひきのあま)の動向や死没年は不明だが、頼朝と北条政子の夫妻が尼の屋敷を訪れて納涼や観菊の宴会を催すなど、頼朝の尼への思慕は最後まで厚く、比企尼(ひきのあま)の存在は「鎌倉幕府成立過程に於いて大きく影響した」と考えられるのである。
尚、掃部允(かもんのじょう)は、律令制に於ける宮内省に属する令外官の官職名で、比企掃部允(ひきかもんのじょう)の本名は比企尼(ひきのあま)同様に不明である。
【比企能員(ひきよしかず)】に続く。
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