藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)
冬嗣(ふゆつぐ)の立身のきっかけは、二十一歳の時に賀美能親王(かみののしんのう/後の嵯峨天皇)の春宮大進(しゅんぐうだいじん・だいしん/皇太子の家政一般役・序列三位)を就任し信頼を得た事で、後に序列二位の春宮亮(とうぐうのすけ/春宮坊の次官)に昇進している。
因(ちな)みに、皇太子の事や住居を東宮(とうぐう)と呼ぶのは天皇の御所の東側に在ったからで、春宮と書いて「とうぐう」と読むのは東が「春」の方位だからである。
帝御所(天皇)・東宮御所(皇太子)・中宮御所(皇后)には、それぞれの住居身辺を警備する為に交代で宿直(とのい)をする役目が存在した。
春宮大進(しゅんぐうだいじん・だいしん)や春宮亮(とうぐうのすけ)にも宿直(とのい)と言う職務が在り、宿直(とのい)は宮中や役所に泊まり込んで夜間の警備をする事、または夜に貴人の傍(そば)に控えて相手をする事でもあり、気心が通じなくては勤まらない。
皇統を継ぐ春宮(しゅんぐう/とうぐう)の主な仕事は子創りであり、冬嗣(ふゆつぐ)が春宮大進(しゅんぐうだいじん・だいしん)の職に就いた時、賀美能親王(かみののしんのう)は二十歳(はたち)とお盛んな時であるから、一歳年上の冬嗣(ふゆつぐ)が、その良き相談相手として信を得た事は想像出来る。
その賀美能親王(かみののしんのう)が、二十三歳で五十二代・嵯峨天皇(さがてんのう)として即位し、冬嗣(ふゆつぐ)は即位の日に正五位下、翌日には従四位下に越階昇叙する。
この次期天皇や次期藩主に息子を側近として付けるのは古典的な方法だが、付けられる方の選択肢は狭いから数少ない中から信じるに足る者を選ばねばならない。
つまり嵯峨天皇(さがてんのう)にとって藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)は最も信頼出来る側近であり、叙任や朝廷人事に天皇の個人的な意向が反映されている点で至極人間臭い人事だったのである。
右大臣・藤原内麻呂の子・冬嗣(ふゆつぐ)は時の天皇・嵯峨(五十二代・桓武朝流第三代)の一歳年上の側近として信頼が厚く、嵯峨天皇が秘書機関として蔵人所を設置すると、初代の蔵人頭(くろうどのかみ)となった。
藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が、八百十年に嵯峨天皇(さがてんのう/五十二代)の筆頭秘書官(又は官房長官)と言うべき蔵人頭(新設官庁である蔵人所の長官)に就任した事に家勢の上昇が始まった。
その後の冬嗣(ふゆつぐ)は嵯峨天皇の下で急速に昇進し、既に十年近く前に参議となっていた藤原式家の藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)をも追い越し大納言として台閣(たいかく/政策決定機関・議政官)の長と成り、最終的には父・内麻呂より一階級上の左大臣まで昇りつめ、北家隆盛の基礎を築いた。
【藤原時平(ふじわらのときひら)】に続く。
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