三好三人衆(みよしさんにんしゅう)
この時代、朝廷お膝元の畿内に、京兆細川氏の被官・三好長慶(みよしちょうけい / みよしながよし)の右筆(ゆうひつ/秘書役の文官)から身を起こした松永久秀(まつながひさひで)が現れる。
松永久秀(まつながひさひで)は、北条早雲・斎藤道三と並ぶ下克上で出世を果たした男である。
足利将軍家、京兆細川氏や三好三人衆に、畠山氏、六角氏がこの松永氏と同盟したり敵対したりで絡み合いながら、都を含む畿内は戦乱に明け暮れていた。
三好氏の当主・三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)は、京兆細川家当主・細川晴元配下の有力な重臣から晴元と将軍・足利義輝を近江国に追放し、室町幕府への直接的な支配力を確立して事実上の三好政権を誕生させた。
その三好長慶(みよしながよし)に一族の重鎮として臣従し、それぞれが軍を率い活動していた三好長逸・三好政康・岩成友通の三人を、いずれも三好氏(みよしうじ)の一族・重臣であった為に三好三人衆(みよしさんにんしゅう)と呼ばれた。
機内限定の三好政権は、細川晴之(細川晴元の次男)を名目上の盟主とする畠山高政・六角氏・六角義賢の同盟軍との攻防を経て勢力に陰りが見える中、三好氏は当主・三好長慶(みよしながよし)を病で失う。
三好長慶(みよしながよし)の死後、養子後継者の三好義継は幼く、長慶の弟達もまたこの世を去っていた為に義継の後見役としてこの三名が台頭し、三好氏の家宰として実権を握って権勢を振るっていた松永久秀(弾正)と共に足利義輝の謀殺(永禄の変)に携わるなどする。
三好三人衆(みよしさんにんしゅう)は長慶(ながよし)の後継養子・三好義継を盟主に立て、松永久秀と共に三好・松永政権の維持を図ったが、やがて義継や久秀(弾正)と対立し政権の混乱を招いて足利義昭を擁立する織田信長を利する結果となる。
千五百六十六年の織田信長上洛に反発、三好三人衆(みよしさんにんしゅう)は抵抗するが信長に敵せず相次いで敗退し、為に三好三人衆の勢力は衰え元亀年間には岩成友通が戦死する。
三好長逸・三好政康の二人も消息不明の状態となり、畿内に於ける三好氏の勢力の衰退と前後して三好三人衆としての活動は完全に途絶えるも、政康は後に豊臣氏の家臣として復帰して大坂の陣に参加し戦死している。
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