藤原秀郷(ふじわらひでさと)
藤太は藤原氏の長・太郎の意味であるが、この通称は秀郷(ひでさと)の武勇を伝説化した百足退治伝説や百目鬼伝説などの脚色を因とするのが妥当である。
秀郷(ひでさと)の出自については、「下野国史生郷の土豪・鳥取氏で、秀郷自身が藤原姓を仮冒した」と言う説もあるが、この血統重視する時代に幾ら朝廷が将門(まさかど)の乱に窮したとは言え、平氏流の平貞盛(たいらのさだもり)を差し置いて押領使に任じるだろうか?
つまり末葉では在ったが、藤原氏系流・藤原北家・魚名の後裔である方がこの際は自然である。
秀郷(ひでさと)は、九百三十九年(天慶二年)平将門(たいらのまさかど)が天慶の乱と呼ばれる兵を挙げて坂東(関東)八か国を征圧すると、平貞盛と連合し、翌九百四十年(天慶三年)二月に将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定し名を挙げる。
平将門(たいらのまさかど)追討時、藤原秀郷(ふじわらひでさと)は乱平定の直前に「下野国・掾(じょう)兼押領使に任ぜられた」とされる歴史学者が複数居り、秀郷(ひでさと)無役説が主流だが、将門(まさかど)の乱平定の功により従四位下に叙され下野守に任じられ、さらに武蔵守、鎮守府将軍も兼任するようになった。
藤原秀郷(ふじわらひでさと)、基は下野国の掾(じょう)であったが平将門(たいらのまさかど)追討の功により、秀郷(ひでさと)は従四位下に昇り下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大して源氏流・平氏流と並ぶ武門の棟梁として多くの家系を輩出した。
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皇統と鵺の影人
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