穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)
戦国期、小田原近在の山王原の太郎左衛門が後北条氏が認めた関東の被差別民の最有力者で在ったが、徳川家康が関東支配を始めると、徳川家康は鎌倉近在の由比ヶ浜界隈の有力者・弾左衛門に被差別民支配権の証文を与えた。
山谷堀の今戸橋と三谷橋の間に弾左衛門屋敷はあり、屋敷一帯は浅草新町とも弾左衛門囲内とも呼ばれた広い区画であった。
弾左衛門囲内は、周囲を寺社や塀で囲われ内部が見通せない構造になっていて、屋敷内には弾左衛門の役宅や私宅のほか蔵や神社が建ち、穢多頭(えたがしら)差配の三~四百名の穢多役人(えたやくにん)家族が暮らす住宅も在った。
弾左衛門は、支配地内の配下は勿論の事、関東近国の天領の被差別民についても裁判権を持っており、罪を犯したものは屋敷内の白州で裁きを受け、屋敷内に設けられた牢屋に入れられた。
弾左衛門(だんざえもん)・矢野家は、幕府から関八州(水戸藩、喜連川藩、日光神領等一部を除く)・伊豆全域、及び甲斐都留郡・駿河駿東郡・陸奥白川郡・三河設楽郡の一部の被差別民を統轄する権限を与えられ、触頭(ふれがしら)と称して全国の被差別民に号令を下す権限をも与えられた。
「穢多頭(えたかしら)」は幕府側の呼称で、自らは代々長吏頭(ちょうりがしら)・矢野弾左衛門を名乗り称した。
矢野家は浅草を本拠とした為に、通称として「浅草弾左衛門」とも呼ばれた。
大きな権力を世襲する弾左衛門(だんざえもん)家であるが、身分はあくまでも非人・穢多頭(えたかしら)であり、名字帯刀を許された訳では無いので矢野と言う名は私称で、公文書に矢野が使用される事はなかった。
弾左衛門(だんざえもん)は、非人・芸能民・一部の職人・傾城屋(けいせいや・遊廓/ゆうかく)などを支配するとされ、傾城(けいせい)は囲われた一郭を意味し廓(くるわ)と同じ意味である。
傾城(けいせい)は公許の遊女屋の集合設置場所を意味し、遊女の元々の起源は神社の巫女による官人の接待とされ、平安期の白拍子などもその遊女の分類に入る。
芸能民に関しては、猿飼(さるかい)・大道芸を生業とした乞胸(ごうむね/物貰い)などが、非人同様に弾左衛門(だんざえもん)の差配下にあった。
また町方の庶民が罪を犯し、町奉行所の裁きで女性の罪人が非人穢多(えた)身分に落される「奴刑(しゃつけい)」や男の罪人が非人穢多(えた)身分に落とされる「非人手下(ひにんてか)」は、弾左衛門(だんざえもん)に下げ渡され、女性は廓(くるわ)に売られ、男性は市中引き回し刑や処刑場の手下(てか)となる。
つまり穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)は、今風に言えば、さしずめ「囚人ビジネス」を代々家業として手掛けて居た事になる。
弾左衛門(だんざえもん)は幕府から様々な特権を与えられ、皮革加工や燈芯(行灯などの火を点す芯)・竹細工等の製造販売に対して独占的な支配を許され、多大な資金を擁して権勢を誇り、格式一万石、財力五万石などと伝えられた。
遊女関連の詳しくは、小論【遊女(女郎)の歴史】に飛ぶ。
◆【性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。
◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。
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