遊郭(ゆうかく)と遊女(ゆうじょ)
江戸幕府は、遊郭惣名主・甚右衛門と条件を交わして江戸市中の遊女街を一ヵ所に集めた公娼(公許)の地を吉原遊郭(よしわらゆうかく)と呼んだ。
吉原遊廓は敷地面積は二万坪余り、最盛期で「数千人の女郎(遊女)がいた」とされ、最大級の規模を誇った公娼街である。
芝居(しばい)の猿若町と日本橋、そして吉原が江戸市中の中でも「一日に千両落ちる場所」と言われて、吉原遊廓は最大級の繁華街と言う事ができた。
また、江戸・吉原のみならず大坂や京都、長崎などに於いても大規模な公娼遊廓が存在し、地方都市にも小さな公娼(公許)遊廓は数多く存在した。
遊郭(ゆうかく)は傾城(けいせい)とも言われ、傾城(けいせい)は囲われた一郭を意味し廓(くるわ)とも同じ意味である。
傾城屋(けいせいや)は女郎屋を意味し、傾城(けいせい)は公娼(公許)の遊女屋の集合設置場所を意味して、江戸及び関八州に限れば町奉行所や寺社奉行所ではなく、幕府公認の穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)が治安を受け持つ特殊例外な一郭の場所だった。
尚、吉原遊郭に於ける遊女の変形として、湯女(ゆな)と言う営業形態も在った。
遊女(ゆうじょ)は、女衒(ぜげん)と言う職業の者が仲介し遊郭(ゆうかく)に集められた。
女衒(ぜげん)には仲介ルートがあり、地方(在方)の女衒(玉出し)が貧しい家の親や兄、叔父などから主として十代前半の若い女性を買い、それを都会の女衒に売り都会の女衒はその女性を遊郭などに売った。
多くの遊女は年季奉公という形で働かされて、現実にはそう多くは無かったが一定の年限を働くか遊女を購った金額を返却できれば解放された。
また、非人総取り締まり役の穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)は、死罪一等を減じられる「奴(しゃつ)刑」で穢多(えた)・非人の身分に身を落とされた女性の下げ渡しを受け、遊郭に売る権限を持っていた。
この「奴(しゃつ)刑」の場合は年季明けは無く、建前では穢多頭(えたかしら)配下の非人として一生遊女(ゆうじょ)で暮らす実質娼婦刑である。
遊女の元々の起源は、官人(高級貴族役人)の接待に神社が巫女を充てた事に拠るとされ、平安期の白拍子などもその巫女起源の遊女の分類に入る。
定説では、遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。
その白拍子は源義経の愛妾・静御前が有名で、白拍子の為す遊芸も元は「神事音楽の巫術から」とされている。
その背景に在ったのは、正に巫女のシャーマニズムと性交呪詛が「誓約神話(うけいしんわ)」の古代信仰文化として深く関わっていた事に他ならない。
元々神道のお祀り(祭り)の意味の内には、異民族(異部族)和合と五穀豊穣の豊年祈願などの呪詛目的を含んでいる。
いずれにしても、巫女は神事としてお祀り(祭り/性交呪詛)に拠る神懸り(かみがかり/神霊降臨)の依り代(よりしろ/憑り代)を役目として負っていた。
そこから派生して、巫女が官人を接待する風習が出来上がって遊女の原型が生まれて行ったのではないだろうか?
遊女関連の詳しくは、小論【遊女(女郎)の歴史】に飛ぶ。
【吉原遊廓と廓内女郎折檻(くるわうちじょろうせっかん)】に続く。
【公娼制度と従軍慰安婦】に続く。
【巫女(みこ)と遊女(ゆうじょ)】に戻る。
詳しくは、小論【誓約(うけい)】をご参照ください。
◆【性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。
◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。
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by mmcjiyodan | 2010-06-11 01:54