京極導誉/佐々木高氏(きょうごくどうよ/ささきたかうじ)
宇多源氏流佐々木氏は鎌倉時代以前より近江にあり、近江源氏とも称された家系で鎌倉時代に近江他数ヶ国の守護に代々任じられていた。
源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、近江本領・佐々木秀義の子である佐々木定綱、佐々木経高、佐々木盛綱、佐々木高綱はそれに参じて活躍し、鎌倉幕府の成立後に佐々木氏兄弟は近江を始め四人で十七ヵ国の守護へと補せられる。
千百八十年頃、近江本領・佐々木氏の惣領であった佐々木信綱は、四人の息子に近江を分けて継がせる。
この内、江北にある高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡と京の京極高辻の館を継いだ四男の佐々木氏信を祖とする一族が、後に館の地名を取り京極氏と呼ばれる様になる。
京極氏は、源頼朝が開いた鎌倉幕府期には江北六郡の地頭職を務め、始祖の京極氏信は鎌倉幕府の評定衆を務め、後を継いだ京極宗綱は、幕府が朝廷に対し天皇の譲位を促した際の使者を務めている。
名門宇多源氏・佐々木流京極氏のその後であるが、鎌倉時代末期に当主となった京極導誉(きょうごくどうよ/佐々木高氏)は、朝廷で検非違使、鎌倉幕府で御相伴衆を務めていたが元弘の乱(げんこうのらん)が起こる。
千三百三十三年(元弘三年)に後醍醐天皇の綸旨を受けた足利尊氏が倒幕の兵を挙げると京極導誉(佐々木高氏)はそれに寄与し、建武の新政に訴訟機関・雑訴決断所(裁判所)の奉行人を任じて加わる。
所が、近臣公家ばかりを優遇する後醍醐帝の政策は武士層の支持を集められず、失望した武士層が新政に対して各地で反乱を起こす事態となる。
千三百三十五年(建武二年)、北条時行らが中先代の乱を起こし鎌倉を占拠すると、京極導誉(きょうごくどうよ)は足利尊氏に従い討伐へと向かい、相模川で時行軍の背後を奇襲し勝利に寄与する。
足利尊氏が鎌倉に入り幕府設立の動きを見せた為、朝廷が新田義貞を総大将とし、尊良親王(たかながしんのう)を奉じた足利尊氏討伐軍を発する。
朝廷が討伐軍を発すると、導誉(どうよ)は尊氏の弟・直義を大将とする尊氏軍として義貞軍を矢作川で迎え討ち戦うが敗れ、手超河原では弟の貞満も討たれ一旦は義貞に下って降伏、朝廷方に加わる。
所が、尊氏が三島に軍を集結させ、大軍率いて箱根峠に進み布陣する。
主戦場は足柄峠のすぐ西にある竹ノ下となり、尊氏方が終始押し気味の展開と成って朝廷方から大友貞載、塩谷高貞など寝返る武将が続出する。
退路を断たれる恐れが出た朝廷方総大将・新田義貞(にったよしさだ)が軍を撤退させるに及んで京極導誉(きょうごくどうよ)が寝返り、再び尊氏方に回った為、朝廷方は総崩れとなり敗走した。
三年後の千三百三十八年(延元三年/暦応元年)後醍醐天皇らを吉野に追った足利尊氏が、京で北朝の光明天皇から征夷大将軍に任ぜられ室町幕府が開かれ、南北両朝並立時代に入る。
箱根の戦い(竹ノ下の戦い)で尊氏方として戦い勝利した京極導誉(きょうごくどうよ)は、その功績を評され引付頭人、評定衆、政所執事、さらに近江・飛騨・出雲・若狭・上総・摂津の六ヵ国の守護を務める有力者となる。
京極導誉(きょうごくどうよ)は足利幕府に於いて要職に着き、対南朝方との戦にも参加するなどして活躍し、守護大名の抗争を調停し、一方で幕府執事(のちの管領職)の細川清氏や斯波高経、斯波義将親子の失脚には積極的に関与するなど影響力を行使している。
足利尊氏に仕えた京極導誉(きょうごくどうよ/佐々木高氏)の活躍により京極氏は室町時代、出雲・隠岐・飛騨の守護を代々つとめ四職(侍所の長官になれる家)の一つとして繁栄したが、応仁の乱の後は家督争いや戦国大名・浅井氏の台頭により衰退した。
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