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尼子氏(あまごうじ)

尼子氏(あまごし)は、佐々木分流の京極流戦国大名である。

千二百二十一年(承久三年)、本領佐々木氏から佐々木信綱(ささきのぶつな)が出て承久の乱に鎌倉方として参戦し、その功に拠り近江国・佐々木豊浦、羽爾堅田、栗本北郡の地頭職を得たのを皮切りに六年後の千二百三十二年(寛喜四年)には近江守に任ぜられる。

その後佐々木氏は鎌倉幕府の有力御家人として近江他数ヶ国の守護に代々任じられていたが、佐々木高氏(京極導誉)の時代に元弘の乱(げんこうのらん)が起って後醍醐天皇方、その後の足利尊氏の蜂起には足利方に付いて室町幕府の有力大名、佐々木京極氏が誕生する。

佐々木流京極氏は、惣領の京極導誉(きょうごくどうよ/佐々木高氏)が亡くなると、京極氏の家督は三男である高秀が本領・京極氏の当主を継ぐ。

千三百七十九年(天授五年/康暦元年)に起こった康暦の政変では、美濃国守護・土岐頼康と共に、管領・細川頼之の罷免を求めて近江で兵を挙げ、それを成し遂げる。

京極高秀の嫡子である高詮(たかのり)は、父のから継いだ飛騨の守護職に加え、千三百九十一年(明徳二年)に山名氏が蜂起した明徳の乱での活躍により出雲と隠岐の守護職も任ぜられる。

京極高詮(きょうごくたかのり)の代に、京極氏は四職の一つとなり、以後の当主は江北、出雲、隠岐、飛騨を領し、侍所司を務める事となり、高詮(たかのり)の弟である高久は近江の尼子郷を分け与えられ、尼子高久を名乗り尼子氏の始祖となる。

その後、本領・京極氏の当主は高光、持高、高数と続き、それぞれ侍所所司として室町時代に頻発した乱の鎮圧にあたる。

高数の後を継いだ持清は、千四百六十七年(応仁元年)に足利将軍家の家督相続などから生じた応仁の乱で一万余騎を率いて東軍に属し京で戦い、翌年からは近江で西軍の六角高頼と戦い優勢を得るが、その最中に病死する。

京極持清の長男・勝秀と次男の政光は既に亡くなっており、勝秀の嫡子と考えられている孫童・吉童子丸が当主を継ぐが、僅(わず)か一年後に死去し、その惣領跡継ぎを巡って政経と高清の間で京極騒乱と呼ぶ争いが起きる。

始めは政経が高清を近江から追放し、出雲、隠岐、飛騨の守護職を得るが、政経はその後の六角氏との戦いに敗れ、さらには徴税の命令に従わなかった出雲・隠岐の守護代である佐々木京極流・尼子経久を追放するも、逆に出雲の拠点である月山富田城を奪い返された。

この尼子氏(あまごし)が出雲を拠点に山陰地方に勢力を伸ばしたものの、安芸国の国人領主・毛利元就(もうりもとなり)と死闘を繰り返して徐々に衰退し、所領の大半を失った。

ほぼ中国地方は毛利氏が覇を唱えるに到ったが、僅かに尼子勝久・山中幸盛ら尼子氏の残党も残っていて、元就(もとなり)の孫・毛利輝元(もうりてるもと)の代に成って、尼子氏は中国討伐に兵を進めた来た織田軍の将・羽柴秀吉と連合し決戦に及んだ。

しかし上月城の戦いで、羽柴秀吉は三木城の別所長治の反乱により退路を塞がれる事を恐れて上月城に尼子勢を残して転進した為、輝元は上月城に残された尼子勝久・山中幸盛ら尼子残党軍は敗れ滅亡した。

毛利氏は周防国・長門国を本拠とした大内氏・大内義隆(おおうちよしたか)を下克上で自害に追い込んだ陶氏・陶晴賢(すえはるたか)も敗って、中国地方の大半は毛利元就(もうりもとなり)の毛利両川(もうりりょうせん)体制が覇を唱えた。

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by mmcjiyodan | 2010-06-19 00:16  

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