源氏流諸系詳細(げんじりゅうしょけいしょうさい)
嵯峨天皇(さがてんのう/五十二代)が始めた事で、生まれた子らの臣籍降下に伴い皇室と祖(ミナモト)を同じくすると言う名誉の意味を込めて源姓(みなもとせい)を与えた。
清和天皇(せいわてんのう/五十六代)の皇子を祖とする清和源氏流が最も多く、二十一流あると言われる源氏に於ける一家系であるが、武家源氏として歴史上に名を馳せた事に拠り、清和源氏をして源氏と称する事が多い。
清和天皇第六皇子・貞純親王(さだずみしんのう)の第六子・経基(つねもと/六孫王)が源を賜姓、経基流清和源氏の初代となりその子孫の系統を清和源氏(せいわげんじ)流とする。
武家源氏として名を馳せた清和源氏に於いては畿内に始まり、各地に広がって土着しており、経基(つねもと)の子・源満仲(みなもとのみつなか)の子から源頼光は摂津源氏、源頼親は大和源氏、源頼信は河内源氏とに分かれそれぞれの祖となる。
河内国を本拠地とした河内源氏の本流/・源義家(八幡太郎義家)は清和源氏の主流で、その子孫は鎌倉幕府を開いた源頼朝に代表される武門として栄え、さらに河内源氏からは石川源氏(石川氏)、他に平賀氏、万部氏、万力氏、紺戸氏、板金氏、中川氏などがある。
また同じ河内源氏・源義光(新羅三郎義光)を祖とする諸家から甲斐源氏(武田氏)、甲斐源氏(若狭武田氏)、常陸源氏(佐竹氏)や信濃源氏(平賀氏)、信濃源氏(加賀美氏流・小笠原氏)、下野源氏(足利氏)、上野源氏(新田氏)などが分派している。
「尾張諸家系図」に拠ると尾張国・平手氏は、三代遡れば清和源氏流・新田氏の一族である。
平手氏は、千三百八十五年(至徳二年)に南朝・宗良(むねなが)親王に属して信濃浪合の合戦で戦死した世良田有親の子・世良田義英に始まるとされている。
この尾張国・平手氏の世良田系図を徳川家康が朝廷に届け出て、源氏の長者・征夷大将軍を認められたには、家康が平手氏の養子と成り、「世良田系図の得川(徳川)氏を名乗った」と手順を踏めば、賀茂流・松平氏ではなく源氏新田流・徳川氏は怪し気ながら成立する。
村上水軍に関しては河内源氏庶流・信濃村上氏を起源とする説で、村上為国の弟・定国が保元の乱後に淡路島を経由して塩飽諸島に居を構え、平治の乱後の千百六十年(永暦元年)に越智大島に居を移し、伊予村上氏の祖となったとされる。
能島村上氏の系図では自らの出自を村上天皇の皇子・具平親王(ともひらしんのう)の子・源師房(みなもとのもろふさ)を祖とする村上源氏としていて、因島村上氏にも同様の起源を主張する系図が残されている。
また信濃源氏流小笠原氏からは、室町期から戦国初期に活躍し一時は畿内一円に覇を唱えた三好氏(みよしうじ)が出ている。
源義国(みなもとのよしくに)の下野源氏(足利氏)と上野源氏(新田氏)は、鎌倉幕府有力御家人から後醍醐天皇(九十六代)の元弘の乱(げんこうのらん)に味方して倒幕に参加、建武の新政(親政/けんむのしんせい)に加わった後南北に分かれて戦った足利尊氏と新田義貞が居た。
足利尊氏が南北朝の戦乱をほぼ勝利で収め、室町幕府を成立して下野源氏(足利氏)族は隆盛し、有力守護大名・細川氏や上杉謙信(長尾輝虎)を出した長尾氏、元禄赤穂事件(忠臣蔵)の敵役に成ってしまった三河の吉良氏、駿河今川氏のなどを出している。
摂津国を本拠地とした摂津源氏からは多田源氏(源満仲/多田満仲)、美濃源氏(土岐氏)その他が分派しており、いずれも清和源氏一門であり、いわゆる「武家源氏」で、美濃源氏(土岐氏)からは、明智光秀の明智氏が分流とされている。
美濃の国(今の岐阜県の南部)に、土岐と言う町(市)がある。
土岐と言う名は、清和源氏(摂津源氏)の流れを汲む守護大名の土岐氏の名で、言うまでも無いが源氏は皇統守護の血筋で有る。
美濃国守護・土岐氏(ときうじ)は、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られる清和源氏嫡流第三代・摂津源氏・源頼光(みなもとよりみつ)の子・頼国(よりくに)が美濃国土岐郡に土着する。
頼国(よりくに)が居館を構えて居住した土地の名、「土岐」を取って土岐氏を名乗ったのが土岐氏の始まりである。
平安時代中期の武将で官人だった清和摂津源氏・源頼光(みなもとよりみつ)の長男・源頼国(みなもとよりくに)が美濃守として赴任、その子孫が美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた一族である。
土岐氏(ときうじ)は、室町時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の三ヶ国の守護大名となり、庶流としては平安期から鎌倉期にかけて明智氏、土井氏、金森氏、蜂屋氏、肥田氏、乾氏、青木氏、浅野氏など多くを輩出している。
清和源氏水野氏が三河国から出た。
水野氏は、源満政流・満政の七世・重房の代に至って小川氏を名乗り、その子・重清の代に至って水野氏を名乗ったとされる。
三河水野氏からは徳川家康の生母・於大の方(おだいのかた・水野太方/みずのたいほう)が出て、水野氏は江戸期に五ヵ家に及ぶ大名家を出している。
清和源氏以外に武家となった源氏としては、嵯峨天皇(さがてんのう)・嵯峨源氏の源融(みなもとのとおる)を祖とする「融流嵯峨源氏」があり、嵯峨源氏の武家として系譜を伝えた摂津国を基盤とした渡辺氏の代表は、摂津源氏源頼光の郎党となり、頼光四天王の筆頭とされる源綱(みなもとのつな/渡辺綱)の渡辺氏とその分流の松浦氏である。
また宇多天皇(うだてんのう/五十九代)を祖とする宇多源氏の中で、武家として近江国を基盤とした系統は近江源氏(佐々木氏)と称し、佐々木氏流として有力武士団に成長して行く。
この佐々木氏流武家としては、京極氏、六角氏、尼子氏などの戦国大名を輩出している。
中央貴族(公家)として栄えた源氏として、村上天皇(むらかみてんのう/六十二代)の皇子を祖とする村上源氏があり、代表的な人物は源通親(みなもとみちちか/土御門通親)である。
同じ源氏でも公卿として繁栄する系統や、武士や神官となる系統に別れるのは、政治情勢や臣籍降下する者、母方の勢力や身分がその後の官途に大きく左右する為である。
特に天皇の皇子が降下する事を「一世の源氏」と言い、任官の上で大いに優遇され、皇孫に至って臣籍降下する事を「二世の源氏」と言い、一世の源氏よりも家系的には出世に不利を蒙った。
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参考記事
源義国(みなもとのよしくに)
足利氏(あしかがうじ)と足利義康(あしかがよしやす/源義康)
新田氏(にったうじ)と新田義重(にったよししげ/源義重)
足利流・斯波氏(しばうじ)
新田流・山名氏と明徳の乱・山名宗全(やまなそうぜん)と応仁の乱〔一〕
新田流・山名氏と明徳の乱・山名宗全(やまなそうぜん)と応仁の乱〔二〕
足利流・一色氏(いっしきうじ)〔一〕
足利流・一色氏(いっしきうじ)〔二〕
足利流・京兆細川家・細川勝元(ほそかわかつもと)と応仁の乱
足利流・畠山氏(はたけやまうじ)
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