大内氏(おおうちうじ)
伝承に拠ると、大内氏は百済の聖明王(さいめいおう)の第三王子・琳聖太子の後裔を称し琳聖太子(りんしょうたいし)が日本に渡り、周防国多々良浜に着岸したことから「多々良」と名乗る。
その多々良氏が後に大内村に居住した事から「大内を名字とした」と伝えられるが、代々、周防国で周防権介を世襲した在庁官人の出である事以外は確たる証明は出来ない。
大内氏は、周防国々府の「介(すけ)」を世襲した在庁官人から領主に台頭し、守護大名から戦国大名に移行した。
いずれにしても大内氏(おおうちうじ)は、中央の貴族の末裔を称する「源平藤橘その他」の武家とは異なり在地の「多々良」と名乗る官人が平安後期の頃より徐々に力を着け、平安末期の当主・多々良盛房は周防で最有力の実力者となり、周防権介に任じられる。
その多々良盛房は大内介と名乗り、以降歴代の当主もこれを世襲し、十四世紀頃から周防国の渡来伝承・琳聖太子の「後裔を名乗った」とされる。
鎌倉時代になると、大内一族は周防の国衙在庁を完全に支配下に置き実質的な周防の支配者となっていた為、鎌倉幕府の御家人として、周防守護を任じ六波羅探題評定衆に任命されている。
南北朝時代に入ると、大内氏(おおうちうじ)で家督争いが起こり、当主・大内弘幸と叔父の大内長弘が抗争する。
背景に在ったのは、南朝宮方・後醍醐天皇に組する当主・大内弘幸と北朝を擁立した足利方・足利尊氏に組する事を画した叔父の大内長弘との対立だった。
この抗争に勝利した大内弘幸の子・大内弘世(おおうちひろよ)は、南朝方の武将として後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の第十一皇子・満良親王(みつながしんのう)を奉じて長門国などへ勢力を拡大、周防国と長門国を領する。
南朝宮方として千三百五十八年(正平十三年)に隣国・長門国守護の厚東氏と戦いその拠点霜降城を攻略して厚東氏を九州に逐った。
これに拠り南朝宮方・大内氏の勢力は周防と長門の二ヵ国に拡大し、弘世は本拠地を山口(山口県)に移し九州王朝・懐良(かねなが)親王の隠し皇子・良光(ながみつ)親王を迎え入れる。
しかし五年後の千三百六十三年(正平十八年)、中央を北朝・足利方がほぼ掌握するに及んで、大内弘世は良光(ながみつ)親王の存在を秘したまま北朝・足利方幕府に帰服する。
北朝・足利方幕府に帰服した大内弘世の跡を継いだ大内義弘は、今川貞世(了俊)の九州制圧に従軍し、南朝との南北朝合一でも仲介を務め、千三百九十一年(明徳二年)には山名氏の反乱である明徳の乱でも活躍し、結果、和泉・紀伊・周防・長門・豊前・石見の六ヵ国を領する守護大名となり、大内氏の最盛期を築き上げた。
この頃室町幕府は、三代将軍・足利義満の代になっていたのだが、大内氏の隆盛を危険視した将軍・義満は事あるごとに大内義弘を挑発、挑発に乗った義弘は鎌倉公方の足利満兼と共謀して、千三百九十九年(応永六年)に畿内の領国・和泉・紀伊の軍勢を主力に堺で挙兵するも敗れて敗死する。
この時点でまだ本来の大内氏の本国・周防・長門・豊前・石見は無事だったが、義弘の死後再び家督を巡っての抗争が起こり大内氏の勢力は一時的に衰退する。
しかし室町幕府は、周防・長門の守護職を義弘の弟である大内弘茂に安堵された。
その後の大内氏は北九州方面に進出、少弐氏・大友氏と当主・大内盛見が討ち死にするなどの死闘を繰り返し、北九州・中国地方の覇権を確立して京都を追われた放浪将軍・足利義稙を保護して上洛を果たし、管領代として室町幕政を執行するなど中央で一大勢力を築き上げる。
しかし大内氏が中央に長期在京している間に、安芸武田氏の武田元繁や出雲国の尼子経久らが大内領を侵略し、足元を脅かす存在となって当主・大内義興は京都を引き払い帰国して、尼子氏や安芸武田氏と戦う。
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