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大内義隆(おおうちよしたか)と陶晴賢(すえはるたか)

大内義興が死去し、千五百二十八年(享禄元年)に嫡子の大内義隆が大内家の家督を継いだ。

大内義隆は周防・長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領するなど名実共に西国随一の戦国大名となり、大内家は全盛期を迎えた。

大内義隆は千五百三十六年(天文五年)に少弐氏を再び滅亡に追いやり、千五百四十一年(天文十年)には吉田郡山城の戦いで尼子氏を撃破するなど、陶興房や内藤興盛等の優秀な家臣に補佐されて、出雲の尼子経久・尼子晴久、筑前の少弐資元・少弐冬尚らと戦う。

一方、豊後の大友義鑑(おおともよしあき/宗麟の父)や安芸の毛利元就などとも何度か戦うも、最終的に融和策を講じている。

しかし戦国期を迎えていた大内氏に転機が訪れる。

千五百四十二年(天文十一年)、出雲に遠征して尼子氏の月山富田城を攻囲するも、配下の国人衆の寝返りに遭って尼子晴久に大敗し、この敗戦により養嗣子の大内晴持を失った為、大内義隆は政治的関心を急速に失い、興味が文人的方向に傾倒して文治派の相良武任らを重用する。

月山富田城攻めの出雲遠征失敗により義隆は政務を放棄し文芸や遊興に耽るようになり、陶隆房ら武断派と相良武任を筆頭とする文治派の対立が激しくなり、大内氏の勢力にも陰りが見え始める。

千五百五十一年(天文二十年)に、大内義隆は武断派・重臣の陶隆房の謀反に遭って義隆は自害し、これにより大内氏は急速に衰退し始め、義隆の自害に拠って実質的に大内家は滅亡した。

陶隆房の陶氏(すえうじ)は、多々良姓大内氏傍流にて、平安時代後期の大内盛長が分流して右田氏となり、子孫の右田弘賢が吉敷郡陶村に居住して陶氏を称したとされ、代々大内氏の血族・重臣を務める家だった。

大内氏の実権を握った陶隆房は、以前義隆の猶子(ゆうし)で在った大友氏出身の大友晴英を傀儡の当主として擁立、晴英を大内義長と改名し、自らも大内義長の旧名晴英より偏諱を受けて陶隆房から陶晴賢(すえはるたか)と改名し大内氏は形式上存続した。

しかしその陶晴賢の専横に反発した大内義隆の姉婿・吉見正頼が石見国三本松で反旗を翻し、その反乱の鎮圧の最中に安芸国の最大勢力であった毛利元就も反旗を翻して、安芸国内の陶方の諸城を攻略する。

千五百五十五年(弘治元年)、後に厳島の戦いと呼ばれる戦が起き、安芸国宮島で陶晴賢は毛利元就の奇襲攻撃の前に自害して果てた。

陶晴賢の死により大内家内部は統制の効かない状況となり、杉氏や陶氏、内藤氏が山口周辺で内紛により衝突する中、毛利元就は千五百五十七年(弘治二年)大内領への侵攻を開始、大内氏親族の吉見氏も毛利氏へと従属する。

まともな戦闘能力を失った大内義長は内藤隆世の守る長門国且山城に逃亡するも、同年名目上の大内氏当主・大内義長は自害する。

その後、大友宗麟の支援を受けた大内氏の生き残りである大内輝弘が周防山口に侵攻し、一時は山口の一部占拠に成功するが、北九州より転進して来た毛利軍の逆襲に遭い大内輝弘は逃亡の後に自害し、これを最後に大内氏の目立った動きは消滅し、中国地方の覇者は毛利氏に入れ替わった。

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by mmcjiyodan | 2010-07-02 00:22  

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