廃藩置県及び帯刀禁止・禄の支給(知行地召し上げ)
しかし現実は、倒幕に功績のあった「薩長土肥と倒幕派公家」の連合政権である。
そして、徳川二百六十年の後始末は、江戸城開城後も内乱の形で、北陸、東北、北海道と「戊辰戦争」として続いていた。
それでも急速に改革は進んで近代化を目指す明治政府は、まず身分制度が改める。
氏族(皇族や有姓身分の公家や武士)や平民、その下に非人(賎民)と言う扱いの差別が存在した江戸幕府の身分制度は、千八百七十一年(明治四年)明治新政府発布の戸籍法に基づいて、翌明治五年に編製された壬申戸籍 (じんしんこせき)が発効され、これに拠り被差別部落民は賎民解放令に基づき平民として編入された。
この戸籍法に拠る編製戸籍を、明治五年の干支からとって「壬申戸籍」と慣習的に名付けている。
その五年後、明治政府は千八百七十六年(明治九年)三月に廃刀令、同年八月に金禄公債証書発行条例を発布した。
この発布された二つは帯刀・禄の支給(知行地召し上げ/)秩禄処分(ちつろくしょぶん)と言う旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。
簡単に言えば、各藩諸侯の独立地域支配に拠る「収石に拠る藩運営」及び武士としての「禄・知行」を中央が取り上げて「財源」とする事である。
すなわち、既成概念に囚われていては「財源の捻出など出来ない」と相場は決まっているが、革命であれば今までの制度を代えて、「財源」はひねり出せるものなのである。
そしてもう一つの目的は、皇族、貴族、士族、平民と言う身分制度が成立して一連の身分制度の改正と共に武士の専業だった「武(兵役)」を男子国民全てに負わせる徴兵制度の確立だった。
何よりも維新の新体制で、藩制が廃され、「武士」と言う身分が無くなった。
この「帯刀と禄の支給(知行地)召し上げ」は、永い事幕藩体制の既得権益の中でノウノウとしていた士族は、一気に無職・無収入の身分に落とされ、特権階級としての誇りも傷付けられる言になる。
この制度改革には「財源の捻出」と言う切羽詰った維新政府の事情があるから、流血を伴っても断行した。
アジア地域の植民地化が進んでいる中、欧米列強と伍して国家を存続させる為には、近代化を急がなければならない。
しかし旧体制の利権を奪われた士族(旧武士階級)の不満は、専業軍人(武士)だっただけに、国家の根幹に関わる重大懸念だった。
その事に憤慨した熊本県士族の神風連の乱、福岡県士族の秋月の乱、山口県士族の萩の乱が立て続けに起こっている。
各地で反乱が頻発したが、「西南戦争がその総決算」と言って良い。
とにかく士族不満の帰結先が西郷軍(鹿児島士族)に拠る反乱が「西南戦争」と言う訳だが、陰陽師(修験山伏)から始まった武術を継承した武士が、その役目を閉じる時が来たのだ。
熊本城や薩摩(鹿児島)の城山での激戦は有名だが、修験武術が歴史的に最後の敗北を確認したのはあの神話の世界、日向(ひゅうが)の国・県(あがた)の庄(延岡市)「無鹿(むしか)」だった。
つまり、天孫に繋がる神の末裔(征服部族・氏族)が、民の兵に敗れた瞬間で有る。
そして、民はすべからく「臣民に代わって」戦いの当事者として靖国への道を歩み始めたのである。
豊臣政権成立時に、秀吉本人も含め従来の氏族ではない身分の者が戦国期の動乱の中から勢力を得て新たに氏族(武士)の列に加わり、一国一城の主・領主階級となった。
同様に明治維新の際も、旧藩主以外に維新に貢献した下級武士が爵位を授かって貴族に列している。
その上で、豊臣秀吉の「太閤刀狩」も、そして反乱の抵抗に合いながら明治政府の「廃刀令も実行された。
詰まりの豊臣秀吉の「太閤刀狩」も、明治政府の「廃刀令」も、本音は新体制確立の為に出回っている武器を取り上げて政権の安定を狙ったものである。
【官吏制度(かんりせいど)】に続く。
注意)、本書でも便宜的に使用しているが、実は「藩(はん)」と言う呼称は江戸期を通じて公用のものではなかった。
従って江戸初期から中期に掛けての時代劇で「藩(はん)や藩主(はんしゅ)」の呼称を使うのは時代考証的には正しくは無い。
幕末近くなって初めて「藩(はん)」と言う俗称が多用され始め、歴史用語として一般に広く使用されるようになったのは維新以後の事である。
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