皇国史観(こうこくしかん)その二
その後の皇国史観(こうこくしかん)の変遷であるが、尊王攘夷運動の根幹を為すのが、徳川光圀(水戸光圀)が創設した水戸藩藩校・彰考館に拠る「大日本史」の編纂から水戸学や国学で基礎が作られた「皇国史観」である。
しかし現実の天皇家は北朝の流れであり、「北朝の天皇の祭祀も行っていた」とされるが、足利尊氏を逆臣とする水戸学では、南朝を正統と唱えていたからまさに南朝・良光親王(ながみつしんのう)の末裔は新生日本にうってつけの帝のお血筋だった。
しかし皇統の万世一系の建前は守らなければならない。
つまり南北朝入れ替わりの事実は闇に葬られたまま、南朝正統論に拠る北朝・現天皇家の資格論争があり、その南朝正統論を踏まえ、幕末の尊王論に影響を与えた儒学者・頼山陽は、後小松天皇は後亀山天皇からの禅譲を受けた天皇であり「南朝正統論と現皇室の間に矛盾はない」と論じた。
千九百十一年には、小学校の歴史教科書に鎌倉幕府滅亡後の時代を「南北朝時代」とする記述があった点が、南朝と北朝を対等に扱っているとして帝国議会で問題とされる南北朝正閏論が噴出、文部省の喜田貞吉は責任を取って休職処分にされた。
これ以後の教科書では、文部省は後醍醐天皇から南北朝合一までの時代を「吉野朝時代」と記述するようになり、南北朝正閏論争以降、宮内省も「南朝が正統である」と言う見解を取った。
千九百二十年年代には大正デモクラシーの高まりを受けて、歴史学にも再び自由な言論が活発になりマルクス主義の唯物史観に基づく歴史書も出版された。
しかし、社会主義運動の高まりと共に思想統制も強化された。
世界恐慌を経て軍国主義が台頭すると、千九百三十五年には憲法学者・美濃部達吉の天皇機関説が、それまで学界では主流であったにも拘らず問題視されて美濃部が不敬罪の疑いで取調べを受け、著書が発禁処分となった事件がある。
千九百四十年年には歴史学者・津田左右吉の記紀神話への批判が問題となって著作が発禁処分となり、一般の歴史書でも、皇国史観に正面から反対する学説を発表する事は困難となった。
そして、第二次世界大戦が勃発すると、「世界に一つの神の国」と記載した国定教科書が小学校に配布された。
政府に拠る皇国史観教育は、太平洋戦争の敗戦とともに終わった。
戦後の歴史学では日本国憲法が施行されて思想・信条の自由が保障され、戦前に弾圧されたマルクス主義の唯物史観が復活して興隆し、皇国史観ではタブー視されていた古代史や考古学の研究が大いに進展し、「古代」「中世」「近代」「現代」と言う名称も用いられるようになった。
古代史に於いて、縄文人から弥生人に移る過程には「渡来征服部族に拠る原住民への圧迫」と言う不都合な歴史が存在した。
その不都合な歴史的事実を塗布して「天孫降臨伝説」を仕立て上げ歴史の闇に葬ったものこそ、古事記・日本書記の編纂と、帝の命を受けてそれを喧伝した修験道師の活躍である。
これら戦後の歴史学は一般的に「戦後史学」と呼ばれ、こうした戦後民主主義の流れが発達する中で、皇国史観は超国家主義の国家政策の一環とし、「周到な国家的スケールのもとに創出されたいわば国定の虚偽観念の体系」と批判されて影を潜めた。
しかし戦後民主主義教育に批判的な「新しい歴史教科書を作る会」の活動(自由主義史観)などの立場からは、皇国史観が評価される事もある。
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参考小論・【未だ残る皇国史(こうこくしかん)】を参照下さい。
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皇統と鵺の影人
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