無縁社会(むえんしゃかい)
哀しい事に、この無縁社会(むえんしゃかい)が孤独死とセットに成っている。
無縁とは「親身になる身内が居ない」と言う事で、これは「共生社会」だった日本人の心が欧米の刹那的な個人思想に変わってしまった事に他ならない。
事の本質に迫れば、実(じつ)の無い善意だけでの「親身」は綺麗事で、戦後の集団就職で地方の若者が減少し「群れ婚状態の村落共生社会」を失った時から「無縁社会」の足音がヒタヒタと迫って来た。
日本の農漁村部に永く続いていた村落共生社会は、「親身の群れ」である。
誓約(うけい)の本質は性交に拠る異部族の群れの一体化で、「親身」の基本的な意味合いを辞書で引くと近親(近い身内)血筋や結婚などで近しく繋(つな)がっている人となる。
身内の次には、肉親であるかのように細(こま)やかな心づかいをする事、または「その様を親身と言う」とあり、「親身」には結婚に準ずる意味合いがあり、「その様=親身」を具体的に具現化すれば「親身=性交」の意味が見えて来る。
つまり村落共生社会に於ける誓約(うけい)に拠る群れの一体化は「夜這いの合意」で成立していて、今でこそ「親身=他人の好意」と簡単に意味つけているが、本来の「親身に成る」と言うのは具体的な「その様」を言うのである。
その誓約(うけい)に拠る群れ社会が消滅して「親身に成る要素」を失えば「隣は何をする者ぞ?」の只の他人で、綺麗事は言っても実質的に互いの間に縁など無い。
つまり人間は欲の深い生き物で、昔の群れ社会ならともかく只の隣人同士の間柄なんてものはいざ蓋を開けて見ると残念ながら「嘘で固めた間柄」なんて事が多いのである。
一方を得れば他方を失うのが世の常で、無縁社会(むえんしゃかい)と言う社会傾向を認識すると、村落共生社会はまんざら非難されるばかりの社会では無かったような気がする。
戦後の刹那的な個人思想が「家族」と言う単位を軽く見る傾向を生み、目先の自由を謳歌したいが為に単身生活を選択する者が急増している。
戦後の一時期はまだ、付き合いや企業に団体と言った縁が存在した。
しかし隣近所付き合いは希薄な社会となり、企業や団体の縁は在職している間だけの関係で退職すれば一気に社会との縁も失う。
そして欧米の刹那的な個人思想が社会の主流になると、職場や労働団体の縁も非正規雇用の増加の中で希薄なものになり、合わせて近隣との関わりを嫌い「隣は何をする者ぞ?」の無縁社会(むえんしゃかい)が一般的に成って行く。
非正規雇用の拡大で、正規雇用機会を失った男性が増加して家庭を持てなく成った事もあり、近い将来男性の三人に一人、女性の四人に一人が「生涯独身」と言う予測もある。
この国に於ける「孤独死」は毎年四万人で、年々増加しているのだ。
お薦め参考文【地球を救う「共生主義」と言うイデオロギー】参照。
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皇統と鵺の影人
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未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくる」<=このブログのランキング順位確認できます。by mmcjiyodan | 2010-07-11 23:41