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脇屋義助(わきやよしすけ)

鎌倉時代末期)から南北朝時代)初期の武将・脇屋義助(わきやよしすけ)は、河内源氏・源義光(新羅三郎義光)を祖とする上野源氏(新田氏)の出自である。

新田義貞(にったよしさだ)の弟で、新田朝氏(にったあさうじ)の次男に当たる。

名字の「脇屋」は、居住して居た群馬県太田市中央部に位置する脇屋(わきや/現・脇屋町/わきやちょう)の地名(町名)が由来で脇屋氏の初代が義助(よしすけ)である。

脇屋義助(わきやよしすけ)は、千三百三十一年(元弘元年)にひそかに護良親王から北条氏打倒の令旨を受け取っていた兄・新田義貞とともに新田荘にて後醍醐天皇元弘の乱(げんこうのらん)に応じて鎌倉倒幕の挙兵し、鎌倉を攻める。

執権北条氏の滅亡、後醍醐天皇の京都への還御に伴い、千三百三十三年(元弘三年)に諸将の論功行賞に拠って義助(よしすけ)は正五位下に叙位され左衛門佐に任官する。

同年、一時期は駿河国守護にもなり、千三百三十五年(建武二年)の足利尊氏の蜂起以後の南北朝期兵庫助、伊予守、左馬権頭、弾正大弼などの官職を歴任し、この頃設置された武者所の構成員(同所五番)と成り、その後も義助(よしすけ)は常に兄・義貞と行動をともにして各地で転戦した。

千三百三十六年(延元元年/建武三年)、脇屋義助(わきやよしすけ)は南朝・刑部卿に転任する。

南北両朝の戦闘が続き、千三百三十八年(延元三年/建武五年)に兄・義貞が越前国藤島の燈明寺畷(福井県福井市新田塚)で不慮の戦死をすると義助(よしすけ)は越前国の宮方の指揮を引き継ぎ、翌年には従四位下に昇叙する。

義助(よしすけ)は兄・義貞亡き後の南朝北陸方面軍の軍勢をまとめて越前国黒丸城を攻め落としたものの、結局幕府軍(足利方)に敗れて越前国から退いた。

千三百四十二年(康永元年/興国三年)、脇屋義助(わきやよしすけ)は中国・四国方面の南朝総大将に任命されて四国に渡るが、伊予国の国府(現在の今治市)・ 国分山(唐子山)城で突如発病し、そのまま病没する。

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by mmcjiyodan | 2010-07-13 17:27  

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