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徳川御三家(とくがわごさんけ)

徳川御三家は、徳川将軍家・宗家の後嗣が絶えた時に備え、始祖・徳川家康が宗家存続の為に遺したものとも言われ、宗家(将軍家)を補佐する役目にあるとも言われているが、実際には老中・大老職が中心となり幕政を合議運営していた。

従って徳川御三家は制度・役職として定められたものでは無く、あくまでも親藩(一門)の最高位の家格として扱われる存在だった。

この事が竹千代(家康)二人説の根拠にも成っているのだが、家康次男で在る筈の結城秀康(秀忠の兄)を祖とする越前・松平家は、松平の姓に復しても当初から徳川姓を名乗る事も宗家存続の役割と格式も与えられていない。

当初将軍家に後嗣が絶えた時は、家康九男・義直を始祖とする尾張徳川家(尾張藩)か家康十男・頼宣を始祖とする紀州徳川家(紀州家・紀州藩)のニ家から養子を出す事になっており、尾張家と紀州家の間には将軍職の継承を巡って競争意識が在った。

御三家に数えられる水戸徳川家は、家康十一男・頼房が二代将軍・徳川秀忠の三男・松平忠長を家祖とする駿河松平家(五十五万石)断絶後の千六百三十六年(寛永十三年)に徳川を賜姓された家であり、他の二家よりも官位・官職の点では扱いが下で、水戸家から将軍が出たのは、御三卿の一橋徳川家への養子を経て将軍家を継承した最後の将軍・徳川慶喜(十五代)だけである。

尚、一般に徳川御三家は尾張、紀伊、水戸の三家であると言われているが、駿河松平家の石高五十五万石が水戸家の三十五万石(二十六万石とも)を上回っていた事や、尾張家や紀伊家同様極官が大納言(水戸家は中納言)であった事から当初の御三家は尾張、紀伊、駿河で構成されていたとする説が存在する。

また、実は松平忠長が二代・秀忠の三男では無く家康の実子だった事から二代将軍・秀忠の遠慮と忠長の三代将軍継承に対する不満増長があり、駿河松平家(五十五万石)の僅か一代の断絶に繋がったとする説もある。

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by mmcjiyodan | 2010-07-15 17:17  

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