禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)
これで朝廷が勝手に事を進める事を制限していたのだが、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)はそれを強化改正したものである。
千六百十五年(慶長二十年)に大坂城が落城し豊臣家が滅亡すると、家康はこの年にいよいよ徳川将軍家の長期政権を固める作業に本格着手、朝廷の行動を制約する法的根拠を得る為に漢文体全十七条の禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を朝廷に突き付ける。
大坂の役(おおざかのえき)は、千六百十四年(慶長十九年)の冬から千六百十五年(慶長二十年)夏に掛けて、徳川家の江戸幕府が豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした戦いで、この戦勝で徳川政権は磐石な物と成る。
禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)とは、江戸幕府が天皇及び公家に対する関係を確立する為に定めた法令で、禁中并公家中諸法度、禁中竝公家諸法度、禁中方御条目とも呼ばれた。
禁中並公家諸法度は、徳川家康が臨済宗の僧・金地院崇伝(こんちいんすうでん)に命じて起草させ、千六百十五年(慶長二十年)七月に、二条城に於いて大御所・徳川家康、二代将軍・徳川秀忠、前関白・二条昭実の三名の連署をもって公布され、同時に、武家を統制するために定めた「武家諸法度(ぶけしょはっと)」も幕府が制定し、公布されている。
この禁中並公家諸法度に拠り、幕府は朝廷の行動を制約する法的根拠を得、江戸時代の公武関係を規定するものとして江戸期を通じて一切改訂はされなかった。
尚、千六百三十一年(寛永八年)に当時の後水尾上皇主導(幕府は間接関与)で青年公家の風紀の粛正を目的とし、朝廷行事の復興の促進と伴に公家の統制を一層進める為に「若公家衆法度」が制定され、これが禁中並公家諸法度を補完するものとなった。
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未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくる」<=このブログのランキング順位確認できます。by mmcjiyodan | 2010-07-20 01:17